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ニューヨーク・ジャイアンツ
アメリカンフットボールチーム ウィキペディアから
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ニューヨーク・ジャイアンツ(英語: New York Giants、略称: NYG)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州イーストラザフォードに本拠地をおくアメリカンフットボールのプロフェッショナル・リーグNFLチーム。NFC東地区に所属している。
ニューヨークを起源とするチームで、1925年にNFLに加盟した5チームのひとつである。同時に加盟したチームの中で唯一現存するチームである。ジャイアンツの愛称は創設当時、ニューヨークにフランチャイズを置いていたメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツから拝借。当初はニューヨーク・フットボール・ジャイアンツ(フットボールのニューヨーク・ジャイアンツ)というチーム名だった。現在でも、このチームを所有する企業体の名称である[1]。これまでにグリーンベイ・パッカーズの12回、シカゴ・ベアーズの9回に次ぐリーグ3番目の8回全米チャンピオンとなっておりスーパーボウルが創設される前の1927年、1934年、1938年、1956年の4回及び4回のスーパーボウル(第21回スーパーボウル、第25回スーパーボウル、第42回スーパーボウル、第46回スーパーボウル)で優勝している。プロフットボール殿堂入りした選手は15人おり、その中のメル・ハイン、フランク・ギフォード、チャーリー・コナーリー、Y・A・ティトル、ローレンス・テイラーはシーズンMVPに輝いたことがある。チームは"Big Blue," the "G-Men," the "Big Blue Wrecking Crew," and the "Jints,"などの愛称で呼ばれている。
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歴史
要約
視点
創設から1963年まで:統合前の4回のチャンピオン
1925年にチームが創設された。この年8勝4敗と勝ち越した。NFLとAFLが統合する前に4回NFLチャンピオンとなっていたが1964年から1980年までは17シーズン連続でプレーオフ出場を逃した。加入して3年目の1927年に11勝1敗1分でNFLチャンピオンとなった。1928年シーズン終了後、デトロイト・ウルバリンズからスターQBのベニー・フリードマンを獲得した。1930年12月にはポロ・グラウンズでノートルダム大学オールスターと対戦した。1933年から1946年までの間、チームは8回NFLチャンピオンシップゲームに出場し2回優勝した。この時代チームはスティーブ・オーウェンヘッドコーチに率いられた。メル・ハイン、レッド・バジロ、タフィ・リーマンズに率いられた。1934年NFLチャンピオンシップゲームでシカゴ・ベアーズを凍ったフィールドで破った試合はスニーカー・ゲームズと呼ばれている。1938年NFLチャンピオンシップゲームではグリーンベイ・パッカーズを38-17で破り3回目の優勝を果たした。
その後チームはクォーターバックのフランク・ギフォード、ラインバッカーのサム・ハフ、オフェンスタックルのロジー・ブラウンなどの殿堂入り選手、オールプロのランニングバックが在籍したものの1956年まで優勝できなかった。1956年NFLチャンピオンシップゲームにはこれらの選手たちは出場しなかったがジム・リー・ハウエルヘッドコーチのコーチングスタッフにはオフェンスにヴィンス・ロンバルディ、ディフェンスにトム・ランドリーの存在があった。1958年から1963年にも5回NFLチャンピオンシップゲームに出場したがいずれも敗れた。ボルチモア・コルツとオーバータイムの末に17-23で敗れた1958年NFLチャンピオンシップゲームは史上最高のゲームと呼ばれるようになった名試合でテレビ中継によりプロフットボール人気が確立された試合である[2]。1959年には第4Qに16-9とコルツをリードしながら16-31と逆転負けを喫した。1963年にはY・A・ティトルが36タッチダウンパスを投げてシーズンMVPとなったがチャンピオンシップゲームでは10-14でシカゴ・ベアーズに敗れた。
1964年から1982年まで:プレーオフから遠ざかる


その後1964年から1978年までチームはわずか2回しか勝ち越せずプレーオフ進出からは遠ざかった。1964年には2勝10敗2分、1965年に7勝7敗と持ち直したが1966年には500失点以上を与え1勝12敗1分に終わった。1969年のプレシーズン、チームはニューヨーク・ジェッツとコネチカット州ニューヘイブンのイェールボウルで対戦、70,874人を集めた試合で14-37と敗れた。ウェリントン・マーラオーナーはアリー・シャーマンヘッドコーチをシーズン前に解任、元ジャイアンツのフルバック、アレックス・ウェブスターが新ヘッドコーチとなった。1967年にチームはミネソタ・バイキングスのQBフラン・ターケントンを獲得したが1967年の7勝7敗、1970年の9勝5敗を除き満足できるシーズンを送れず、1971年に4勝10敗に終わった後、ターケントンはバイキングスにトレードされた。ターケントンはその後バイキングスを3度スーパーボウルに導いた。1973年からの6シーズンでチームはわずか23勝しかできなかった。1974年には1勝5敗となったところでダラス・カウボーイズでロジャー・ストーバックとの先発争いに敗れ控えQBとなっていたクレイグ・モートンを獲得したが残り8試合でチームは1勝しかできず2勝12敗に終わりトレードで手放した全体2番目の指名権でカウボーイズは後にプロフットボール殿堂入りするランディ・ホワイトを指名した[3]。モートンはその後2年間先発QBとしてプレーしたがチームは1975年には5勝9敗、1976年には3勝11敗に留まった。
1976年にチームはロン・ジョンソンの代わりに後に殿堂入りするラリー・ゾンカを獲得したがジャイアンツに在籍した3シーズン、彼は故障もあり満足に働くことはできなかった。1977年にはロースターに新人QB3人が並ぶ事態となった。この時代ヤンキー・スタジアムの改修もありイェールボウルやシェイ・スタジアムで戦った。1976年にジャイアンツ・スタジアムが完成し本拠地を移した。1978年にはメドウランズの奇跡と呼ばれるようになったフィラデルフィア・イーグルス相手にニーダウンすれば確実に勝てた試合をランニングプレーを選択した結果、ボールをファンブルし、ハーマン・エドワーズにリターンタッチダウンをあげられ試合を落としている。1965年にジャック・マーラが亡くなって以来、ウェリントン・マーラとティム・マーラの間がうまくいっておらずコミッショナーのピート・ロゼールに仲介されるほどであった。
1977年にチームはモートンをデンバー・ブロンコスにトレードしスティーブ・ラムジーと翌年のドラフト5巡を手に入れたがいずれもジャイアンツでプレーすることはなく終わり逆にモートンはブロンコスを第12回スーパーボウル進出に導いた[4]。1981年から1983年の間、ディフェンスが驚異的で、ブラッド・バンペルト、ハリー・カーソン、ローレンス・テイラー、ブライアン・ケレーでラインバッカー(LB)のグループ「クランチ・バンチ」を結成していた。
1983年から1990年まで:ビル・パーセルズ時代
1983年にレイ・パーキンスの後を継いでヘッドコーチとなったビル・パーセルズが就任するとチーム成績は向上し1986年シーズンには第21回スーパーボウルでデンバー・ブロンコスを破り優勝を果たした。
1990年シーズンはエースQBのフィル・シムズ(1979年ドラフト全体7位で指名)をシーズン途中に怪我で失い控えQBのジェフ・ホステトラー(1984年ドラフト3巡目で指名)がシーズン終盤から先発することとなったが13勝3敗で地区優勝を果たした。そしてNFCチャンピオンシップゲームでスーパーボウル3連覇を狙うサンフランシスコ・49ersを相手にタッチダウンをあげられなかったもののマット・バーの5本のFGで15-13と破り、第25回スーパーボウルではバッファロー・ビルズに20-19と1点差での勝利で2度目のスーパーボウル優勝を果たしパーセルズは勇退した。
1991年から2003年まで
後任のレイ・ハンドレーはホステトラーをエースQBに指名した。2年連続プレーオフ出場を果たすことができず1993年チームはデンバー・ブロンコスのヘッドコーチだったダン・リーブスと新ヘッドコーチとして契約した。リーブスはシムズを再びエースQBに指名し、ホステトラーはオークランド・レイダースに移籍した。1993年に年間最優秀コーチに選ばれる活躍を見せたがその後3シーズンはプレーオフ出場を果たせなかった。
1997年から2003年はジム・ファセルがヘッドコーチとなった。うち3回プレオフに出場し、2000年にはスーパーボウルで敗れた。
2004年から2016年まで:トム・コフリンとイーライ・マニングの時代
2004年、トム・コフリンがヘッドコーチに就任した。この年、サンディエゴ・チャージャーズからドラフト全体トップで指名されたイーライ・マニングがチャージャーズへの入団を拒否、ジャイアンツは全体5番目に指名したフィリップ・リバースなどとトレードでマニングを獲得した。開幕当初はカート・ワーナーが先発QBを務めたが5勝4敗となったシーズン中盤からマニングが先発QBに昇格、しかしチームはその後1勝しかできず6勝10敗でシーズンを終えた。

コフリンが就任して2年目の2005年からチームは3年連続でプレーオフに進出し、2007年には10勝6敗で、ワイルドカードからのプレーオフ出場ながら、タンパベイ・バッカニアーズを24-14、ダラス・カウボーイズを21-17、氷点下18.3度(体感気温氷点下31.1度)の敵地ランボー・フィールドで行われたNFCチャンピオンシップゲームでグリーンベイ・パッカーズをオーバータイムの末、23-20で破り、7年ぶり4回目のスーパーボウル出場を果たした。第42回スーパーボウルでは、レギュラーシーズン16連勝を果たしたニューイングランド・ペイトリオッツを17-14で破り3度目のスーパーボウル優勝を果たした。2008年シーズンNFCトップの12勝4敗の成績をあげてホームフィールドアドバンテージを確保したがディビジョナル・プレーオフでフィラデルフィア・イーグルスに敗れてシーズンを終えた。
2009年、チームは開幕から5連勝したがニューオーリンズ・セインツに27-48で敗れた試合を含めて4連敗を喫した。最終的にチームは8勝8敗に終わりプレーオフを逃した。3年目のWRスティーブ・スミスがチーム記録となる107回のキャッチ、チーム歴代2位の1,220ヤードを獲得し7タッチダウンをあげた。最後の2試合で合計85失点を喫したこともあり、シーズン終了と共にビル・シェリダンディフェンスコーディネーターが解任されバッファロー・ビルズの暫定ヘッドコーチを務めていたペリー・フューウェルが就任した[5] 。
2010年、チームは10勝6敗の成績をあげたがプレーオフを逃した。第15週のフィラデルフィア・イーグルス戦では残り7分半で31-10とリードしていたが、21点差を守れず、31-31の同点に追いつかれ、試合終了間際アウトオブバーンズを狙うように新人パンターのマット・ドッジに指示したパントをデショーン・ジャクソンにリターンTDされて敗れている[6]。
2011年、6勝2敗と好スタートを切ったもののその後4連敗を喫した[7]。勝った方が地区優勝となるダラス・カウボーイズとの最終週の試合に勝利、9勝7敗で地区優勝を果たした[8]。ワイルドカードプレーオフで、アトランタ・ファルコンズを24-2と相手攻撃陣に得点を許さず(2失点はセイフティによる失点)[9]新スタジアムでのプレイオフ初勝利チームとなり、続くディビジョナルプレーオフではシーズン15勝1敗で前年スーパーボウルの覇者グリーンベイ・パッカーズを敵地で37-20と下し、勝ち上がる。そして雨天のNFCチャンピオンシップゲームにてサンフランシスコ・49ersとの延長戦を制して(20-17 OT)、4年前を彷彿とさせる快進撃で第46回スーパーボウルに駒を進めた。奇しくも4年前と同じ組み合わせとなった第46回スーパーボウルでは第1Qにセイフティと1TDで9-0とリード、第2Qに逆転TDパスを決められリードを許したが、第4Qに逆転し、ニューイングランド・ペイトリオッツを21-17で撃破、4度目のスーパーボウル王者に輝いた。MVPにはイーライ・マニングが4年前に続いて選ばれた。

2012年はシーズン前半を6勝2敗で折り返したものの、11月に入ると攻撃、守備ともに調子を落とし3勝5敗。特に12月の最終盤においては、第13週のワシントン・レッドスキンズとの同地区対決に敗れ[10]、第15週のアトランタ・ファルコンズ戦は無得点で敗戦するなど[11]、完全に失速。最終成績は9勝7敗だったが地区優勝はレッドスキンズにさらわれ、ワイルドカードによるプレイオフ出場も逃した。2011年に16.5サックを挙げ躍進したディフェンスエンドのジェイソン・ピエールポールは、このシーズンは6.5サックに終わった[12]。
2013年から2015年シーズンは3年連続で負け越しに終わった。低調なチーム状態の中、2014年シーズンから加入したWRオデル・ベッカム・ジュニアが2014年11月23日のダラス・カウボーイズ戦でワンハンド・キャッチ・タッチダウンを決め[13]年間成績でも2シーズンで約2800ヤード、25TDを稼ぐなど気を吐いた。 2015年シーズンをもってコフリンHCは辞任[14]。オフェンスコーディネーターを務めていたベン・マカドゥーが後任として昇格した[15]。ベン・マカドゥーHCの下、2016年はワイルドカードでプレーオフ進出を果たしたが初戦で敗退。
2017年から:低迷再び
2017年はNFC最下位に沈み、シーズン途中でヘッドコーチとGMが辞任する事態となった。デーブ・ジェトルマンがGMとして採用された。HCには今季ミネソタ・バイキングスのOC(オフェンシブ・コーディネーター)を務め、かつてはクリーブランド・ブラウンズのHCを務めたパット・シューマーが就任した。
2018年も地区最下位となった。
2019年のドラフト全体6位でQBダニエル・ジョーンズを指名した。この年は地区最下位は脱したもののプレーオフは逃し、シューマーは解雇された。ニューイングランド・ペイトリオッツのスペシャルチーム・コーディネーターのジョー・ジャッジが後任となった。OCには前ダラス・カウボーイズHCのジェイソン・ギャレットが就任した。シーズン後、先発出場の激減したイーライ・マニングは引退を表明した。
2020年シーズンは新型コロナウイルス感染症流行のため、全ホーム試合を無観客とした。地区の全チームが勝率5割を切る中、6勝10敗で地区2位となりプレーオフを逃した。
2021年シーズンは地区最下位となりプレーオフを逃した。シーズン終了直後、GMのジェトルマンは引退した。HCのジャッジ、OCのギャレットはともに解雇された。GMの後任には、バッファロー・ビルズのアシスタントGMであったジョー・ショーンが就任した。HCの後任にはバッファロー・ビルズのOCだったブライアン・ダボールが就任した。
2022年、QBダニエル・ジョーンズを先発QBに固定し、9勝7敗1分けで地区3位となるもワイルドカードとして6年ぶりのプレーオフ出場を果たした。プレーオフ初戦ではミネソタ・バイキングスを破ったがディビジョナルラウンドではイーグルスに敗れた。
2023年、同地区のライバルであるイーグルスおよびカウボーイズが好調な一方で、シーズン途中でジョーンズと2番手のQBタイロッド・テイラーがともに負傷してチームは精彩を欠いた。途中からはドラフト外ルーキーのトミー・デヴィートを先発QBとした。第16週にプレーオフを逃すことが決定した。
2024年も序盤から低迷し、ジョーンズは第10週の試合を最後に正QBの座を剥奪され[16]、そのままチームを去った[17]。3勝にとどまり地区最下位およびカンファレンス最下位でプレーオフを逃した。
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2025年シーズン成績
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成績
NFC東地区(4地区制、2002年-現在)
- DAL:ダラス・カウボーイズ、NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ、WAS:ワシントン・レッドスキンズ→ワシントン・フットボールチーム→ワシントン・コマンダース、PHI:フィラデルフィア・イーグルス
- 数字:シード順
- v:スーパーボウル優勝
- s:スーパーボウル敗退
- c:カンファレンス決勝敗退
- d:ディビジョナルプレーオフ敗退
- w:ワイルドカードプレーオフ敗退
- 年表示の背景色が変わっている年はチームがスーパーボウルを制覇した年
NFC東地区(3地区制、1970年-2001年)
- DAL:ダラス・カウボーイズ、NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ、WAS:ワシントン・レッドスキンズ、PHI:フィラデルフィア・イーグルス、StL→PHO→ARI:セントルイス・カージナルス→フェニックス・カージナルス→アリゾナ・カージナルス
- 1982年シーズンはストライキの影響により、地区別成績ではなくカンファレンス上位8チームがプレイオフ進出するルールであったが、ここでは地区別に変換して表記する。
- 括弧内の数字はプレイオフ出場時のシード順(シード制導入前は表記なし)、文字はv:スーパーボウル優勝、s:スーパーボウル敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退、d:ディビジョナルプレーオフ敗退、w:ワイルドカードプレイオフ敗退。1982年についてはd:2回戦敗退、w:1回戦敗退。
NFL東カンファレンス・センチュリー地区(1969年)
- PIT:ピッツバーグ・スティーラーズ、CLE:クリーブランド・ブラウンズ、StL:セントルイス・カージナルス、NY:ニューヨーク・ジャイアンツ
- 括弧内の文字はv:スーパーボウル(AFL-NFLワールドチャンピオンシップゲーム)優勝、s:スーパーボウル敗退・NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退
- プレイオフは地区優勝チームのみ出場
NFL東カンファレンス・キャピトル地区(1968年)
- DAL:ダラス・カウボーイズ、WAS:ワシントン・レッドスキンズ、PHI:フィラデルフィア・イーグルス、NY:ニューヨーク・ジャイアンツ
- 括弧内の文字はv:スーパーボウル(AFL-NFLワールドチャンピオンシップゲーム)優勝、s:スーパーボウル敗退・NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退
- プレイオフは地区優勝チームのみ出場
NFL東カンファレンス・センチュリー地区(1967年)
- PIT:ピッツバーグ・スティーラーズ、CLE:クリーブランド・ブラウンズ、StL:セントルイス・カージナルス、NY:ニューヨーク・ジャイアンツ
- 括弧内の文字はv:スーパーボウル(AFL-NFLワールドチャンピオンシップゲーム)優勝、s:スーパーボウル敗退・NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退
- プレイオフは地区優勝チームのみ出場
NFL東カンファレンス(1953年-1966年)
- CLE:クリーブランド・ブラウンズ、CHC→StL:シカゴ・カージナルス→セントルイス・カージナルス、PHI:フィラデルフィア・イーグルス、WAS:ワシントン・レッドスキンズ、PIT:ピッツバーグ・スティーラーズ、NY:ニューヨーク・ジャイアンツ、DAL:ダラス・カウボーイズ、ATL:アトランタ・ファルコンズ
- 括弧内の文字はv:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝
NFLアメリカン・カンファレンス(1950年-1952年)
- CLE:クリーブランド・ブラウンズ、CHC:シカゴ・カージナルス、PHI:フィラデルフィア・イーグルス、BOS→WAS:ワシントン・レッドスキンズ、PIT:ピッツバーグ・スティーラーズ、NYG→NY:ニューヨーク・ジャイアンツ
- 括弧内の文字はv:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝
NFL東地区(1933年-1949年)
- NY→NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ、PIT:ピッツバーグ・パイレーツ→ピッツバーグ・スティーラーズ、BOS→WAS:ボストン・レッドスキンズ→ワシントン・レッドスキンズ、PHI:フィラデルフィア・イーグルス、BOS→NYB:ボストン・ヤンクス→ニューヨーク・ブルドッグス、BK:ブルックリン・ドジャース→ブルックリン・タイガース、Phil-Pitt:フィラデルフィア・イーグルスとピッツバーグ・スティーラーズの合同チーム
- 1943年は太平洋戦争の影響により、スティーラーズとイーグルスが合同チームで東地区に参加した。
- 括弧内の文字はv:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・地区優勝
NFL(1925年-1932年)
- 1932年以前はチームの入れ替わりが激しかったため、現存チームのみを表記する。
- NY・NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ、GB:グリーンベイ・パッカーズ、BOS:ボストン・ブレーブス(現コマンダース)、POR:ポーツマス・スパルタンズ(現ライオンズ)、CHB:シカゴ・ベアーズ、CHC:シカゴ・カージナルス
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主な選手
現役選手
永久欠番
プロフットボール殿堂入り
リング・オブ・オナー
→詳細は「リング・オブ・オナー(英語版)」を参照
- アーニー・アコーシ
- ジェシー・アームステッド
- カール・バンクス
- ティキ・バーバー
- マーク・ババロ
- アル・ブロジス
- ロジー・ブラウン
- ハリー・カーソン
- チャーリー・コナーリー
- トム・コフリン
- フランク・ギフォード
- ピート・ゴゴラック
- メル・ハイン
- ジム・リー・ハウエル
- サム・ハフ
- デイブ・ジェニングス
- ジョン・ジョンソン
- タフィ・リーマンズ
- ジャック・ラムズ
- ディック・リンチ
- イーライ・マニング
- ジャック・マーラ
- ティム・マーラ
- ウェリントン・マーラ
- ジョージ・マーティン
- ジョー・モリソン
- スティーブ・オーウェン
- ビル・パーセルズ
- アンディ・ロブステリ
- フィル・シムズ
- クリス・スニー
- マイケル・ストレイハン
- ケン・ストロング
- ローレンス・テイラー
- ボブ・ティスク
- Y・A・ティトル
- アマニ・トゥーマー
- ジャスティン・タック
- エムレン・タネル
- オウシ・ウメニオーラ
- ブラッド・バンペルト
- アレックス・ウェブスター
- ジョージ・ヤング
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歴代ヘッドコーチ
- ボブ・フォルウェル(1925)
- ジョー・アレクサンダー(1926)
- アール・ポテイジャー(1927-1928)
- リロイ・アンドリュース(1929-1930)
- ベニー・フリードマン(1930)
- スティーブ・オーウェン(1931-1953)
- ジム・リー・ハウエル(1954-1960)
- アリー・シャーマン(1961-1968)
- アレックス・ウェブスター(1969-1973)
- ビル・アーンスパーガー(1974-1976)
- ジョン・マクベイ(1976-1978)
- レイ・パーキンス(1979-1982)
- ビル・パーセルズ(1983-1990)
- レイ・ハンドレー(1991-1992)
- ダン・リーブス(1993-1996)
- ジム・ファセル(1997-2003)
- トム・コフリン(2004-2015)
- ベン・マカドゥー(2016-2017)
- パット・シューマー (2018-2019)
- ジョー・ジャッジ (2020-2021)
- ブライアン・ダボール (2022-)
- ベニー・フリードマン
- トム・コフリン
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脚注
関連項目
外部リンク
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