トップQs
タイムライン
チャット
視点
ネルソン・パヤノ
ウィキペディアから
Remove ads
ネルソン・ラファエル・パヤノ(Nelson Rafael Payano, 1982年11月13日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身のプロ野球選手(投手)。
Remove ads
経歴
要約
視点
プロ入りとマイナー時代
2000年に、アトランタ・ブレーブスと契約を結んだ。
2003年は、傘下ルーキーリーグのガルフ・コースト・リーグ・ブレーブスで13試合に登板した。
2004年は、傘下ルーキーリーグのガルフ・コースト・リーグ・ブレーブスと傘下アドバンスルーキーリーグのダンビル・ブレーブスで計14試合に登板した。
2005年は、傘下Aのローム・ブレーブスで1試合に登板するに留まった。
2006年は、傘下ルーキーリーグのガルフ・コーストリーグ・ブレーブスと、傘下Aのローム・ブレーブスと、傘下アドバンスAのマートルビーチ・ペリカンズで計23試合に登板した。
2007年は、傘下アドバンスAのマートルビーチ・ペリカンズと傘下AAのミシシッピ・ブレーブスで計43試合に登板した。
2008年は、傘下AAのミシシッピ・ブレーブスで27試合に登板した。シーズン途中に、グレッグ・ノートンとのトレードでシアトル・マリナーズへ移籍した。ここでは、傘下AAのウェストテン・ダイヤモンドジャックスで14試合に登板した。成績は中継ぎで41試合登板、4勝3敗、防御率4.16。67イニングで65奪三振、42四球だった。
中日時代
2009年、中日ドラゴンズへ入団。前年オフに参加したドミニカ・ウィンターリーグでの好投が、同リーグを視察中だった当時の中日一軍バッテリーチーフコーチの森繁和の目に留まったことから獲得が決まった。オープン戦で結果を残したことから、同じドミニカ出身で前年に入団したマキシモ・ネルソンと共に、公式戦の開幕を一軍で迎えた。4月5日の対横浜戦で来日初登板。無死一・二塁のピンチを無失点に抑えると、以降は貴重な左のセットアッパーとして働いた。シーズン通算では、一軍公式戦に34試合登板。防御率が2.08と安定していた。しかし実際には、奪三振こそ多いものの、制球難から四球で自滅するシーンも目立った。8月7日の対横浜ベイスターズ戦では、8回裏無死ランナーなしからリリーフに立ったが、11球続けてストライクを取れずに3者連続四球を記録。1アウトすら取れないまま降板を命じられたばかりか、翌日に出場選手登録を抹消された。
シーズン終了の直後には、中日でプレーを続けることを希望したため、球団側も再契約の方向で調整していた。しかし、パヤノ側が球団の提示した年俸(推定20万ドル)を上回る金額(最低25万ドル)を要求したことから残留交渉が決裂。パヤノも日本流の長時間練習に馴染めなかったことなどから、メジャーリーグへの再挑戦を決意した[1]。結局、中日は12月10日にパヤノの退団を正式に発表。12月14日付で、セントラル・リーグから自由契約選手として公示された。
アストロズ傘下時代
2010年に、カンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ。スプリングトレーニング中に、解雇された。その後4月19日に、ヒューストン・アストロズと契約を結んだ[2]。傘下AAのコーパスクリスティ・フックスで26試合に登板したが、成績不振で、7月11日に、解雇された[3]。
メキシカンリーグ時代
2012年は、メキシカンリーグのタバスコ・キャトルメンでプレーした。
2013年は、同リーグのモンテレイ・サルタンズでプレーした。
中日復帰
2013年12月12日、中日への5年ぶりの復帰が発表された[4]。
2014年は、オープン戦では制球を乱して自滅することが多く、開幕を二軍で迎えるも、23試合に登板した。11月28日に自由契約公示された[5]。
中日退団後
2015年、10月から母国ドミニカのウィンターリーグ、リーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ラ・レプブリカ・ドミニカーナのレオネス・デル・エスコヒードでプレー。
Remove ads
プレースタイル
最速150km/h超のストレートとキレの良いスライダーでねじ伏せるタイプ。他に、チェンジアップも投げる。[要出典]
奪三振は多いが、コントロールが悪く与四死球も多い。[要出典]
詳細情報
年度別投手成績
- 2014年度シーズン終了時
記録
- NPB
背番号
- 45 (2009年)
- 47 (2014年)
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads