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バック・ズモフ
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"ロックンロール" バック・ズモフ("Rock 'n' Roll" Buck Zumhofe、本名:Eugene Otto Zumhofe、1951年3月31日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミネソタ州サイラス出身[2]。
ジャンプスーツに身を包んだロックンローラー・ギミックのベビーフェイスとして、地元ミネソタのAWAやテキサス州ダラスのWCCWを主戦場に活動[1]。大型のラジカセを肩に抱え、ロック・ミュージックを大音量で流しながら登場する入場パフォーマンスで人気を集めた[1]。
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来歴
要約
視点
1973年、バーン・ガニアが主宰していた地元ミネソタのAWAにて、ビル・ロビンソンやコシロ・バジリのトレーニングを受けてデビュー[2]。ベビーフェイスのジョブ・ボーイとして、ヒールのメインイベンターのジョバーを務めてキャリアを積んだ。1970年代後半は太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングにも時折出場し、ロディ・パイパーとも幾度となく対戦している[1]。1980年5月には全日本プロレスの『スーパー・パワー・シリーズ』に初来日[3]。シングルマッチでは若手時代の大仁田厚から勝利を収めた[4]。
以降もAWAを活動の拠点に、1980年代に入るとロックンローラー・ギミックを確立してジョバーのポジションを脱し、トレードマークのラジカセを破壊した悪党マネージャーのボビー・ヒーナンと抗争[1][5]。大ベテランのマッドドッグ・バションやクラッシャー・リソワスキーともタッグを組み[6]、1982年には当時AWAで人気沸騰中だったハルク・ホーガンのパートナーとなって、ヒーナン・ファミリーのニック・ボックウィンクル、ケン・パテラ、ボビー・ダンカンとの軍団抗争にも加わった[7]。1983年6月19日にはマイク・グラハムを破り、AWA世界ライトヘビー級王座を獲得している[8]。
1984年より、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCCWに参戦。黒人レスラーのアイスマン・キング・パーソンズをパートナーに、ロックン・ソウル(Rock 'n' Soul)なるタッグチームを結成し[9]、同年5月6日にスーパー・デストロイヤー1号&2号からNWAアメリカン・タッグ王座を奪取[10]。ファビュラス・フリーバーズのマイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ、バディ・ロバーツとも抗争を展開した[11]。1985年2月4日には、前王者ビリー・ジャック・ヘインズの負傷による返上で空位となっていたTV王座をリップ・オリバーと争った[12]。
主戦場のAWAでは1985年11月28日にスティーブ・リーガルを破り、AWA世界ライトヘビー級王座を再び獲得[8]。1986年4月20日にミネアポリスのメトロドームで開催された "WrestleRock 86" では、アメリカ遠征中だったタイガーマスクと対戦している[13]。しかし1986年7月、性犯罪事件を起こして投獄され、タイトルを剥奪された[8]。
その後、1990年8月11日にAWA世界ライトヘビー級王座への3度目の戴冠を果たすも、翌年にAWAは活動を停止[8]。以降、1990年代はWWFに出場したが、ロックンローラーのギミックは与えられず、キャリア初期と同じくジョバーのポジションだった[14]。1995年4月末には、ハンター・ハースト・ヘルムスリーことトリプルHのWWFデビュー戦のジョバーを務めている[1][5][15]。
2000年代にはプロモーターとして、ロックンロール・レスリング(Rock & Roll Wrestling)なるインディー団体を主宰、ミネソタを中心とする中西部において興行を手掛けた[1]。2011年3月26日にはHOW(Heavy On Wrestling)のミネソタ州ダルースでのイベントにおいて、彼のギミックをヒール・バージョンで受け継いだホンキー・トンク・マンと対戦した[16]。
2014年、1999年当時15歳だった家族の女性に、2011年までの長期にわたり性的虐待を加えたことで25年間の刑が言い渡された[17][18]。
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得意技
獲得タイトル
- ワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング
脚注
外部リンク
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