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ブライアン・ジョーダン
MLBとNFLに出場したマルチアスリート (1967-) ウィキペディアから
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ブライアン・オニール・ジョーダン(Brian O'Neal Jordan, 1967年3月29日 - )は、アメリカ合衆国・メリーランド州ボルチモア出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)及び元アメリカンフットボール選手(セイフティ)。MLB選手とNFL選手を兼業したマルチアスリートとして知られている。
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経歴
プロ入り前
高校時代は野球、アメリカンフットボール、バスケットボールで活躍した。1985年のMLBドラフト20巡目(全体505位)でクリーブランド・インディアンスから指名を受けたが、入団せずリッチモンド大学に進学した。
プロ入りとマイナー及びNFL時代
リッチモンド大学時代は野球とアメリカンフットボールの両方でプレーしており、1988年にはMLBドラフト1巡目追補(全体30位)でセントルイス・カージナルスから、1989年にはNFLドラフト7巡目(全体173位)指名でバッファロー・ビルズからそれぞれ指名され、ともにプロ契約を結んだ(ただし、ビルズ入り直後のトレーニングキャンプで契約を打ち切られ、ほどなくしてアトランタ・ファルコンズへ移籍している。)。
プロ入り当初はフットボールの方に比重を置いており、1989年から1991年までの3年間でファルコンズの選手として公式戦36試合に出場した。また、同時期に野球の方ではマイナーでプレーしており、1991年にはAAA級まで到達した。
カージナルス時代
1992年より野球に専念。同年4月8日のニューヨーク・メッツ戦でメジャーデビュー。
1995年に右翼手のレギュラーを獲得し、133試合に出場して打率.296・22本塁打・81打点・24盗塁の成績を残した。
翌1996年には100打点を突破(104打点)。1997年は椎間板を痛めて47試合の出場に終わったものの、1998年には自己最高の打率.316・25本塁打と復活した。オフにFAとなった。
ブレーブス時代
1998年11月23日にアトランタ・ブレーブスと5年間総額4000万ドルで契約[1]。
移籍1年目の1999年は自己最多の115打点を挙げるなど、4番の重責を果たした。さらにともに自身初となるオールスター選出、ワールドシリーズ出場を経験した。2000年、2001年もレギュラーとして地区優勝に貢献した。また、かつて同じアトランタにあるファルコンズに在籍していたこともあり、ブレーブス時代は大きな声援を浴びていた[2]。
ドジャース時代
2002年1月15日にゲイリー・シェフィールドとのトレードでオダリス・ペレスと共にロサンゼルス・ドジャースへ移籍した[3]。
2003年オフにFAとなった。
レンジャーズ時代
2004年1月8日にテキサス・レンジャーズへ移籍した。
ブレーブス復帰
ブレーブスには2006年まで在籍し、同年に引退した。
引退後
引退後はFOXスポーツで解説者として活動している。また、アパレル会社のオーナーも務めている(外部リンク参照)。
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詳細情報
年度別打撃成績
獲得タイトル・表彰・記録
- MLB
- プレイヤー・オブ・ザ・マンス:1回 (2002年9月)
- MLBオールスターゲーム選出:1回(1999年)
背番号
- 3 (1992年 - 1998年)
- 33 (1999年 - 2006年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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