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一条実輝
日本の華族、海軍軍人。海軍大佐・正二位・公爵、東宮侍従長。四条隆謌の七男。一条家25代、公爵一条家初代。貴族院決算委員長。明治神宮宮司 ウィキペディアから
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一条 実輝(いちじょう さねてる、旧字体:一條 實輝、1866年10月2日〈慶応2年8月24日〉 - 1924年〈大正13年〉7月9日)は、日本の華族、海軍軍人。海軍大佐・正二位・公爵に上り、東宮侍従長を務める。陸軍中将・侯爵の四条隆謌七男。
一条家は藤原北家、九条道家の三男実経を始祖とし、五摂家の一つに数えられる。昭憲皇太后は義理の叔母。南部家第46代当主の南部利文は曾孫。醍醐家第7代並びに第9代当主の醍醐輝弘は大伯父。
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生涯
実父は四条隆平だが隆平の兄・四条隆謌の子として育つ。実輝は、自身のはとこにあたる一条忠貞の跡を受け、1883年(明治16年)9月20日に家督を継承[1]。1884年(明治17年)7月7日、公爵に叙爵される[2]。1887年(明治20年)7月25日に海軍兵学校(第14期[3])を卒業[4]。1889年(明治22年)フランス留学[5]。1891年(明治24年)、松島艦で帰国した[6]。同年7月6日、貴族院公爵議員に就任[5][7]。その後、従軍した日清戦争、その後の日露戦争で功を挙げる。その後、駐フランス公使館附海軍武官となる[8]。1908年(明治41年)1月20日、海軍大佐に昇進し予備役に編入となり、当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)に仕える東宮侍従長に任じられた[9]。
1912年(大正元年)9月21日、掌典次長に任じられた[10]。1913年(大正2年)8月9日、宮中顧問官となる[11]。
1914年(大正3年)5月24日、昭憲皇太后の大喪使祭官長として祭詞を奏上した[原文 1]。同年8月24日に後備役となり[12]、1919年(大正8年)8月24日に退役した[13]。
1920年(大正9年)10月8日、明治神宮初代宮司に就任する[6][14][注 1]。11月11日、大正天皇が明治神宮を親謁した際には、侍従を介して玉串拝礼を行い、実輝が神前に奉奠した[15]。
1924年(大正13年)7月9日、肋膜炎のため59歳で薨去した[16]。7月13日、貴族院より弔辞が贈られた[原文 2]。7月14日、勅使として山縣辰吉が差遣され、幣帛が下賜された[17]。のちに祭粢料2500円を賜り、大正天皇・貞明皇后より榊二対を下賜された[18]。
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栄典
- 位階
- 1896年(明治29年)12月21日 - 従三位[19]
- 1900年(明治33年)12月10日 - 正三位[20]
- 1907年(明治40年)12月20日 - 従二位[21]
- 1915年(大正 4年)12月28日 - 正二位[22]
- 勲章
系譜
実輝の家族
出典がない限り霞会館 1996a, pp. 149–150を参照している。
- 前妻:一条良子(1868 - 1899) - 一条実良三女[注 2]
- 次女:一条経子(1885 - 1956)
- 後妻:一条悦子(1877 - 1945) - 細川護久七女
- 長男:一条実基(1901 - 1972) - 土佐一条家を名目上再興する形で分家し明治35年(1902年)に男爵を授爵するも子はなかった[27]。
- 三女:伏見朝子(1902 - 1971) - 裕仁親王妃候補、伏見宮博義王妃[28]
- 次男:佐野常光(1906 - 1977) - 佐野常羽養子[29]
- 三男:南部利英(1907 - 1980) - 南部利淳養子[31]
- 四女:一条直子(1908 - 1991) - 閑院宮春仁王妃[32]、のち離婚して一条姓に戻り高橋尚民と再婚。婿となった高橋が一条尚民と改名。
- 五女:鍋島圭子(1911 - ) - 鍋島直方夫人[33]
- 六女:伊達生子(1911 - 1934) - 伊達宗克夫人[34]
- 養子
皇室との関係
後陽成天皇の男系八世子孫である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
脚注
参考文献
関連項目
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