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世界タッグ王座
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世界タッグ王座(せかいタッグおうざ)は、全日本プロレスが管理、PWFが認定している王座。
概要
PWF世界タッグ王座、インターナショナル・タッグ王座の統一王座で、全日本プロレスにおけるタッグ王座の至宝といえる存在となっている。
1988年6月10日、インターナショナル・タッグ王者のロード・ウォリアーズと、PWF世界タッグ王者のジャンボ鶴田&谷津嘉章組(五輪コンビ)が統一戦を行い、五輪コンビが反則勝ち[1]。その2日後にジャイアント馬場が渡米し、NWAとPWF双方から了解を得て、6月27日に五輪コンビを初代世界タッグ王者とすることを発表。当初はNWAが認可しPWFが認定する王座であったが、全日本プロレスがNWAを脱退したのちは、NWAの認可が無くなり、PWFが認定する王座となり、以降、現在まで継承されている。
→「PWF世界タッグ王座 § 歴史」、および「五輪コンビ § 概要」も参照
三冠ヘビー級王座と世界タッグの両王座を同時戴冠している王者は「五冠王者」とも形容される[2][3]。
1988年から1994年までは、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦(以下、最強タッグリーグ)が近づくと世界タッグ王者組がベルトを返上し、最強タッグリーグで優勝したチームが新王者になるという形式が取られていたが、1995年以降はこの慣例もなくなった。なお、ベルト返上後に最強タッグリーグで優勝し世界タッグ王座へ返り咲いた例は9回中4回あり、1989年の天龍源一郎&スタン・ハンセン組(第10代・第11代)、1994年の三沢光晴&小橋健太組(第24代・第25代)、2012年の大森隆男&征矢学組(第63代・第64代)、2014年の秋山準&大森隆男組(第67代・第68代)が達成している。
→詳細は「世界最強タッグ決定リーグ戦 § 試合形式等」を参照
チャンピオンベルトについては、三冠ヘビー級王座は2013年に新たに3本のベルトを一本化した上で新調し、旧ベルトの3本は全日本プロレス創業者たるジャイアント馬場の遺族に返還されたが、世界タッグ王座は長らく2本(各人に2本ずつの計4本)のベルトをそのまま使用していた。2025年7月、世界タッグ王座を構成する2本のベルトの老朽化などを理由に、全日本プロレスはチャンピオンベルトの新調を発表、同年7月17日の後楽園ホールでの興行で開催される宮原健斗&青柳優馬組対大森北斗&タロース組の選手権試合の勝者に新ベルトが贈呈されることとなった[4]。新ベルトは従来のPWFタッグ王座ベルト・インタータッグ王座ベルトをそれぞれリニューアルしたものとなり、一本化はされなかった[5]。
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歴代王者
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主な記録
- 最多戴冠者:9回
- 川田利明(第17・20・22・26・28・31・35・42・52代)
- 最多戴冠回数:6回
- 川田利明&田上明(第22・26・28・31・35・42代)
- 最多連続防衛回数:8回
- 斉藤ジュン&斉藤レイ(第99代)
- 最多通算防衛回数:12回
- 諏訪魔&石川修司
- 斉藤ジュン&斉藤レイ
- 最年長戴冠:51歳5か月
- 天龍源一郎(第44代)
- 最年少戴冠:22歳4か月
- 本田竜輝(第91代)
世界タッグ王座のベルト返還請求訴訟
要約
視点
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- 経緯
2004年6月12日に行われた世界タッグ選手権試合で、永田裕志(新日本プロレス)とケンドー・カシンが世界タッグ王座を獲得。カシンは試合後に「このベルトは封印する」と宣言し、その言葉通り半年間防衛戦を行わなかった。カシンは全日本プロレス側より世界タッグ王座を剥奪されたが、ベルトを返還しなかった。その後、全日本プロレスが世界タッグ王座のベルトの返還を求める際に、誠意を持った対応をせずに「ベルトの写真撮影のためにベルトを貸してほしい」などの発言をしたため、カシンにとって王者としてのプライドを傷つけられた結果となり、また「貸してほしい」とカシン自身に所有権を認めたかのような発言を全日本プロレス側が行い、その後カシンは全日本プロレスとの連絡を一切取らないようになった為、全日本プロレスは2005年8月2日付で東京地裁に民事訴訟を起こした。
- 初公判
2005年10月5日、東京地裁513法廷で行われた。初公判において全日本プロレス側は訴状でと前提として「選手契約を結んでいた被告と」した。しかし実際には全日本プロレスの以下のような独特の契約体制、ベルト管理体制が明らかになり、結果として訴状自体の効力が問題視された。
- 全日本プロレスの選手契約は口約束のため、契約書などが存在しない(これはジャイアント馬場の生前からのもので、外国人レスラーの間では「馬場が『わかった』と言えばどんな契約書より信用できる」といわれていた)。
- 「ベルトは全日本の由緒正しい所有物。団体側に所有権があり、王者には預託しただけ」
独特の選手契約もさることながら、そもそも全日本プロレス世界タッグ選手権を「勝利」したはずのレスラーにベルトの所有権がなく、王者に預託しただけという発言はプロレスビジネスを知らない人間にはわかりにくい理屈ともいえる。初公判の席上、裁判長は主に以下の2点について全日本プロレス側に質問をした。
- (1)全日本プロレスの所有物であるならば、そもそもどういう経緯で手に入れたのか
- (2)王者になるという事とベルトを占有する事に違いはあるのか
「(2)王者になるという事とベルトを占有する事に違いはあるのか」ということについては、防衛を重ねた名王者がチャンピオンベルトの個人所有を許されるというプロレス、ボクシング共通の習慣が存在する(すなわち、1回獲得した程度では所有は許されない)。また、個人所有を認める場合でも、王座の象徴としてのチャンピオンベルトは団体が新製し所有するのが普通である。
- 東京スポーツ証拠資料提出
全日本プロレス側の弁護士が、カシン被告の全日本プロレスに対する無礼な言動を示す証拠として提出したのが「東京スポーツ」だった。この証拠を提出された裁判長は「これはベスト・エビデンス(証拠)にはならない。次は、ちゃんとした資料を出してください」と以下のようにコメントし、証拠を却下した。全日本が東スポを証拠として出した理由は、石澤は不定期の人生相談コーナーを持つなど東スポ誌面に数多く登場しており、石澤が問題のベルトを所持していること、全日本を中傷する言動を繰り返していること等が書かれてあったからである。また、プロレスを詳細に報道する日刊紙はそもそも東京スポーツぐらいしか存在しない。
- 顛末
全日本プロレスは早期和解を求めたが、カシン側は「ベルト獲得後に全日本プロレスに試合を組んでもらえなかったことが原因」とし、あくまでもリング上での決着を求めたため物別れに終わった。そんな中あくまで自分の主張を譲らないカシンの行動についていけなくなったカシン側の弁護士がカシンの弁護を辞退するという事態になり、手詰まりになったカシン被告は2006年4月末に着払いでベルトを返還したと報道されているが、なぜか全日本プロレスの公式発表は一切ない。
→詳細は「ケンドー・カシン § 世界タッグベルト返還訴訟」を参照
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脚注
外部リンク
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