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伊佐爾波神社
松山市にある神社 ウィキペディアから
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伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「左三つ巴」。
別称として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれる。
概要

松山市市街地の西部、道後温泉近くの道後山の東南端に鎮座する[1]。もとは道後公園のある場所にあったが、建武年間に河野通盛によって湯築城構築のため現在地に移された[1]。
現存する社殿は寛文7年(1667年)に松山藩主松平定長によって造営された[1]。
国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国行)が伝えられている。
祭神
歴史
概史
社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。
伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した[1]。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。
松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。
寛文2年(1661年)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664年)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。
寛文7年(1667年)5月15日、大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみである(現存)。
明治以降
境内
- 本殿
- 寛文7年(1667年)造営。様式は「八幡造」といわれ、後殿・前殿の2棟の社殿が前後につながった形をとる。後殿は祭神の夜の座所、前殿は昼の座所とされる。後殿は切妻造、檜皮葺、桁行9間、梁間2間で、三間社を横に3つ繋げた形となる。前殿は流造、檜皮葺き、桁行9間、梁間2間。国の重要文化財に指定[2]。
- 申殿(もうしどの)
- 本殿の前に位置する。桁行1間、梁間1間、一重、切妻造平入りで檜皮葺。前方に桁行3間、梁間1間、妻入の廊下が接続する。国の重要文化財に指定[3]。
- 楼門
- 社殿正面に位置する。入母屋造、本瓦葺。初層正面は唐破風とする。国の重要文化財に指定[4]。
- 廻廊
- 楼門の左右から伸び、本殿等の社殿を囲む。国の重要文化財に指定[5]。
摂末社
境内社は3社とも末社。
- 常盤新田霊社 (ときわにったれいしゃ)
- 高良玉垂社 (こうらたまたれしゃ)
- 素鵞社
- 常盤新田霊社(重要文化財)
- 高良玉垂社(重要文化財)
- 素鵞社
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主な祭事
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文化財
重要文化財(国指定)
愛媛県指定有形民俗文化財
現地情報
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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