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伊藤久敏
日本のプロ野球選手 (1944-) ウィキペディアから
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伊藤 久敏(いとう ひさとし、1944年6月19日 - )は、福岡県久留米市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。左投右打。
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経歴
久留米商ではエース、四番打者として活躍。1962年春季九州大会準々決勝に進むが、鹿児島玉龍高に惜敗。同年夏の甲子園に出場。4試合中3試合を完封して勝ち上がり決勝まで進む。決勝では春の優勝校・作新学院の加藤斌投手と投げ合うが0-1で惜敗、準優勝にとどまる[2]。作新学院は甲子園初の春夏連覇。この大会の県予選南部地区2回戦では、福岡第一高を相手にノーヒットノーランを記録した。同年の岡山国体でも決勝まで進出したが、西条高に0-2で敗れ準優勝。高校同期に控え投手の平尾邦彦(巨人)がいる。
高校卒業後は、駒澤大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験。リーグ通算45試合に登板し14勝7敗、防御率1.76、94奪三振。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に日本代表として選出されるが、登板機会はなかった。大学同期に土屋紘投手、大下剛史遊撃手、後藤和昭三塁手がいる。社会人野球の日本通運に入社が内定していたが、1966年の第二次ドラフトで中日ドラゴンズから2位指名を受け入団[1]。
なお、中日入団の2年前には夏の甲子園決勝で0-1で惜敗した相手投手の加藤が中日在籍2年目にして事故死している。
左の速球派として期待され、1年目から中継ぎとして28試合登板。1969年には先発陣に加わり、初めて規定投球回にも達する。防御率2.25(リーグ5位)の好成績を記録するが、わずか3勝と結果を残せなかった。しかし5年目の1971年に一躍12勝8敗、防御率2.41(9位)と素質が開花。同年のオールスターゲームにも初出場した。しかし翌1972年は5勝と伸び悩み、その後は故障もあり成績が低下[1]。1974年限りで自由契約となり、1975年に太平洋クラブライオンズへ移籍するが、僅か8試合の登板に終りこの年限りで引退[1]。球種はスライダー、カーブ、シュートがあった。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1971年)
背番号
- 16 (1967年 - 1974年)
- 18 (1975年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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