トップQs
タイムライン
チャット
視点
伊藤寿文
ウィキペディアから
Remove ads
伊藤 寿文(いとう としふみ、1959年5月14日 - )は、愛知県[1]出身の元プロ野球選手(捕手・内野手)。右投右打。1987年までは捕手登録だったが、1988年以降は内野手登録となった。
Remove ads
来歴・人物
国府高では市川和正の1年後輩。市川と同じく東海大に進学[1]。東海大学では在学中首都大学野球リーグで5度優勝。しかし3年時の秋季リーグ以降は、白武佳久らのいた日体大の台頭により優勝から遠ざかる。大学同期に井辺康二、青山道雄がいた。
大学卒業後は、社会人野球の東芝に入団。1983年の都市対抗野球では、広島に同期入団する川端順の好投もあり順調に勝ち進む。決勝では新日本製鐵名古屋を降して優勝を飾った[2]。同年の日本選手権でも決勝に進出するが、住友金属に惜敗、準優勝にとどまる。同年は公式戦通算打率.366、6本塁打、18打点をマークした[1]。
1983年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから4位指名を受け入団[1]。
プロ1年目の1984年から一軍初出場を果たすが定着するには至らず、1988年11月8日に福岡ダイエーホークスに金銭トレードで移籍[1]。大型捕手との前評判も達川光男をしのぐことはできず、広島時代は捕手登録であったが守備機会はわずか4試合で、内野手としての出場がほとんどであった。
ダイエーに移籍して1年目の1989年は、故障した藤本博史の代役として一時期三塁手のレギュラーを掴むなど、プロ入り最高の49試合に出場する。同年10月14日、近鉄バファローズの優勝決定試合では最後の打者となった(投手は阿波野秀幸)。1990年限りで現役を引退[1]。
1987年には広島市民球場では珍しいランニングホームランを放っている。
Remove ads
詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
- 初出場:1984年6月29日、対ヤクルトスワローズ12回戦(明治神宮野球場)、7回表に大野豊の代打として出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、7回表に梶間健一から適時二塁打
- 初本塁打:1984年7月17日、対ヤクルトスワローズ15回戦(広島市民球場)、7回裏に小林誠二の代打として出場、梶間健一から2ラン
- 初盗塁:1989年5月16日、対オリックス・ブレーブス6回戦(グリーンスタジアム神戸)、(投手:ガイ・ホフマン)
背番号
- 31 (1984年 - 1988年)
- 43 (1989年 - 1990年)
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads