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佐野政言

江戸時代中期の旗本 (1757-1784) ウィキペディアから

佐野政言
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佐野 政言(さの まさこと / まさつね[注 1])は、江戸時代中期の旗本。通称、善左衛門佐野政豊の子で、目付江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(妻の兄)[2]。姉に春日広瑞室、小宮山長則室。10人姉弟の末子で一人息子であった。

概要 凡例佐野 政言, 時代 ...
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佐野善左衛門宅跡(東京都千代田区三番町

生涯

要約
視点

佐野善左衛門家は、松平清康以来松平氏徳川氏に仕えた譜代佐野備後守家[注 2]分家であり、藤原秀郷流を称していた[4]。善左衛門家は五兵衛政之が徳川秀忠の時代に廩米300俵を受けて立家したのに始まる[4]。政之は御小姓組であり、子孫は代々番士を務めている[3]綱吉治世の1698年元禄11年)より番町に屋敷を構えた[注 3]。政之の孫政矩は廩米200俵の加増を受け、宝永6年の致仕とともに下野国都賀郡のうちに500の采地を賜った[4]。政矩の孫であり、政言の父に当たる伝右衛門政豊も大番西丸本丸新番を務め、1773年(安永2年)に致仕し、代わって政言が同年8月22日に17歳で家督を相続した。1777年(安永6年)に大番士、翌1778年(安永7年)に新番士となる[6]

天明4年(1784年3月24日江戸城中之間において、退出しようとしていた若年寄田沼意知に切りつけ[注 4]、初太刀で肩口、さらに手と腹部と下腿部を負傷させた[7]。意知は切りつけられたまま逃亡し、暗がりに倒れ込んだため、政言は意知を見失った[8]。政言は大目付松平対馬守忠郷に取り押さえられ、目付の柳生主膳正久通によって脇差を取り上げられた[8]。その後蘇鉄の間に入れられた後、老中田沼意次の命令で伝馬町揚座敷に預けられた[9]。その後大目付大屋明薫江戸町奉行曲淵景漸、目付山川貞幹による取り調べを受けている[9]

意知は手当の遅れもあり、その8日後の4月2日に絶命すると[6]、先例に従って4月3日に政言は揚座敷にて切腹を命じられた[10] [11]。『田沼実秘録』や『佐野田沼始末』には政言の切腹の有様が描写されている。江戸中期には切腹と言っても形式的なものとなっており、切腹人が三方の木刀または扇子に手をかけたところで介錯人が首を斬るというもので、実際に腹を切ることはほとんどなかった。しかし、政言は「刃物刃物」と叫び、実際に真剣で腹を切らせるよう要求した。その要求通りに刀は三方に載せられたが、政言よりやや遠い位置に置かれた。政言が前かがみになって刀を取ろうとしたところ、首を差し出す形となり、その瞬間に介錯が行われたという[10]数えの28歳[12]であった。

政言の葬儀4月5日菩提寺台東区西浅草徳本寺(とくほんじ[12] [13])で行われたが、両親など遺族は謹慎を申し付けられたため出席できなかった[1]。葬儀には見物人が大勢詰めかけ、寺の門扉に「佐野大明神」と書かれた紙が貼り付けられるなどの騒ぎとなり、寺社奉行同心が寺の玄関で待機する事態となった[14]。法名は元良印釈以貞居士[15]

後に徳本寺に寄贈された文書の中には、政言の辞世とされるものがある。これは鏡文字で書かれた異様なものであり「こと人に阿らて御国の友とちたたかひすつる身はゐさきよし(他の人ではない御国の人 戦いを捨てたこの身は清々しいものである)」というものであった[16]。また、世上には辞世とされるものが広まっている。ただし、幕府の記録では政言が切腹の場で辞世を詠んだという記録はない[17]

  • 卯の花の盛りもまたで死手の旅 道しるべを山時鳥(『営中刃傷記』、『新燕石十種』収録)[16]
  • 卯の花の盛を捨て死出の旅 山時鳥道しるべせよ(『鼠璞十種』)[16]

事件の動機

幕府の取り調べでは乱心ということになり[18] [20] [22]、意知暗殺の動機は明らかにはならなかった。

事件直後から様々な憶測が広まったが、いずれも史料上の裏付けはない。当時のオランダ商館長イサーク・ティチングは幕政内で何らかの政治的謀略があったという噂が広まっていたとしている[16]。この噂によれば意知暗殺の動機は、意次が様々な改革を行ったことから各方面の恨みを買い、若年の意知がその政策を継承することを恐れたためであるとしている[23]

江戸時代後期に著された作者不明の『営中刃傷記』[注 5]によれば、政言は暗殺時に懐中に七か条の口上書を持っていたとされ、焼き捨てられたが松平忠郷がこれを密かに写し取っていたとされる[25]。また、在所に十七か条の口上書を残していたともされる[25]

その口上書にあげられた田沼親子の罪とされる行為は以下のようなものである[26] [27] [28] [29]

七か条の口上書

七か条の口上書に挙げられたものは政言自身に関係のある事象が多く、辻善之助は憤ったのは無理もないことであるが、私憤であるとしている[30]

  • 3年前、佐野亀五郎を通じて意知が佐野家家系図を見たいと言ってきたため、貸出を行った。しかし、催促しても返却されなかった[31] [注 6]
  • 天明3年(1783年)年の冬、将軍徳川家治鷹狩りに供弓として選ばれる名誉を受け、1羽を射ち取った。しかし意知が政言の矢であることを言上しなかったため、褒賞にあずかれなかった[2] [32]
  • 佐野家の領地下野国甘楽郡西岡村・高井村にある佐野大明神を意知の家来が横領し、「田沼大明神」に改称した[31]。ただし、佐野家の采地は『寛政重修諸家譜』によれば下野国都賀郡であり、口上書の内容とは異なる[4]
  • 佐野家に伝わる七曜の旗を意知が借り出し、田沼家の定紋と同じであることから返却しなかった[31]
  • 田沼家は元を正せば佐野の家来筋であり、役付となるために田沼の公用人と話したが、何の役にもつけないまま3年間で620両取られた[33]

十七か条の口上

十七か条は田沼親子の政策を非難するものが多い。辻善之助は「十七か条」の口上書はその後に流布した「田沼への申渡罪状二十六箇条」という戯作に類似しており、政言の死からさほど離れていない時期に偽作されたものではないかとしている[34]

  • 意次は無能であるのに天下の執権職となった。民を安んじる役職であるのに私欲に走った[32]
  • 依怙贔屓が多く、人事に不正が有る。特に水野忠友の弟を松平源八郎の養子とし、自らの子(意正)を養子にして水野家を乗っ取ったことはその代表である[32]
  • 17日は神祖(徳川家康)の忌日であるのに、寵童や卑妾を集め宴会をしていた[32]
  • 旗本に自分の卑しい家来との縁組を行わせた[32]
  • 後藤庄三郎贋金を作らせてその利益を得ていた[35]
  • 意知を歴々の家を差し置いて若年寄とした[35]
  • 奥向に賄賂を取った役に立たない者を入れ、将軍を汚した[36]
  • 自分の屋敷に御部屋様(将軍側室)を招き入れ、芸者河原者を相手に出し、みだらな行為を行おうとした[36]
  • 加増の際、累代の功績ある大名・旗本の良い領地を取り上げた[36]
  • 本家の系図を借りて、偽って自分の家を本家にしようとした[36]
  • 多くの運上金をとり、庶民を苦しめた[36]
  • 死罪になるべきものを勝手に許した[36]
  • 金を町人に貸し付け、利息を取った。重職にあるまじき行為である[36]
  • 自分の家に「諸大名御旗本法度」に背いて家を追放された者を吟味せずに置いている[36]
  • 代々の将軍が初乗に用いた諏訪部文九郎から受取り、自分の鞍とした[36]
  • 縁家である土方家の先祖の名を付置き、家来に不敬をなさしめた[36]
  • 衆道を持って成り上がったのに、武功の家であると偽っている[36]
  • 意知は天下が困窮している中、米五千俵を不正に受け取った[36]
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その後の佐野家

佐野家は改易となり、家屋敷は召し上げられた。しかし闕所とはされなかったので、遺産は遺族に譲ることが認められた[37]。血縁者は連座には及ばず、父母は長女の婿であった春日家に身を寄せた。政言には子や男兄弟はおらず、同居していた家族は父母と妻、そして叔父のみであった[3]。よって政言の死により佐野家は絶える。その後明治から昭和頃に、政言の後裔を称する人物が存在しているが、山田忠雄はこれは善左衛門家の祖、政之の弟の家系佐野喜左衛門家の出身ではないかと見ている[14]

そのひとりである人物と連絡を取っていた三田村鳶魚の日記によると、佐野家の再興を行う動きが何度かあったとされる。寛政年間には幕府が佐野家再興のため徳本寺に問い合わせたところ、徳本寺では佐野家を継ぐべき血縁については知らぬと答えたことから、再興はならなかった[38]。また、三田村が明治43年(1910年)に面会した佐野家の後裔は、50年ほど前の「松倉周防守が老中の時[注 7]」に、当該の人物を後嗣として政言の家の再興を認め、禄については追って沙汰をするということとなったが、幕末の混乱により叶わなかったという[38]。1984年には政言の名跡を継いでいた当時の当主が病死し、遺族が関連資料を菩提寺の徳本寺に寄贈している[37]

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事件の影響と「世直し大明神」

政言を取り押さえた松平忠郷はその報奨として、上野国新田郡において200石を加増された[39]。一方で止められなかった若年寄の酒井忠香太田資愛米倉昌晴は将軍へのお目通りを停止された[15]。また、中之間にいた6人は差控の処分を受け、柳生久通は佐野を取り押さえる際の行動が不手際であったとして御叱りの処分を受けた[24]。さらに当時中之間にいた江戸町奉行山村良旺勘定奉行桑原盛員久世広民ら九人の旗本と、表坊主らも叱責処分を受けた[40]

佐野が意知を斬った脇差は粟田口忠綱作の刀だったことから、忠綱作の刀の相場が急上昇したという[41]。『営中刃傷記』には「粟田口保光作之由」とあり、この脇差で犬を斬ってから人を切ると、その傷がなかなか塞がらないという風聞があったと記す[42]

かねてから意次の政策に不満を抱いていた市井の人々は、その息子である意知へ刃傷に及んだこと、またその翌日にそれまで高騰していた米価が下落したことから、佐野を「世直し大明神」と呼ぶに至った[43]。そして墓所の浅草徳本寺には多くの人々が参詣に訪れ、墓に賽銭し花を手向け、佐野のために石塔を奉納しようとする者まで現れたと『営中刃傷記』は伝えている[44]白河藩の江戸家老として松平定信に仕えた服部正礼は、天明5年(1785年)1月に浅草へ赴いた折、佐野の墓へ参詣したことをその著『世々之姿』に記しており、それによると数多くの参詣者が供えた賽銭によって墓や周囲が整備され、墓の周りに細いの丸太でできた玉垣が作られ、正面には錠前のついた大きな賽銭箱が据え付けられていたという[45]。ただし米価が下落したのは幕府が天明の大飢饉の救民対策として、大坂町人から買持米を6万5000石ほど摘発し、その3分の1にあたる2万8000石が江戸に到着したことが大きいとされる。ちなみにその後、米価は事件のあった翌年春頃から再び上昇した[46]

天明9年(1789年)正月に刊行された黄表紙黒白水鏡』(石部琴好作、北尾政演画)は、佐野の刃傷事件を表現したとして絶版処分となり、作者琴好が手鎖のうえ江戸払い、絵師政演(京伝)は過料(罰金刑)を申し付けられた[47]。芝居では事件が起きた年の8月に、大坂中の芝居で『稲光田毎月』が上演されており、これは曽我世界に事寄せ、刃傷事件を当て込んだものであった[48]。寛政元年(1789年)大坂では人形浄瑠璃『有職鎌倉山』が上演されるなど[49]、歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台に取り上げられている。

官歴

関連作品

歌舞伎・浄瑠璃

  • 『稲光田毎月』 - 歌舞伎。天明8年8月、大坂中の芝居にて上演。奈河七五三助の作。
  • 有職鎌倉山』 - 人形浄瑠璃。寛政元年8月、大坂豊竹座にて初演。菅専助の作。謡曲鉢の木』をからめたストーリーで、「佐野源左衛門」が「三浦荒次郎」を討ち、切腹になるという筋立て[49]。同年10月には京都で歌舞伎として上演されている[50]
  • 『佐野系図由緒調』 - 歌舞伎。明治12年(1879年)2月、東京市村座上演[51]

小説

映画

テレビドラマ

漫画

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脚注

参考文献

関連資料

関連項目

外部リンク

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