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長沢芦雪

江戸中期から後期の画家(1754-1799) ウィキペディアから

長沢芦雪
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長沢 芦雪(ながさわ ろせつ、宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日1799年7月10日))は、江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。長沢蘆雪長澤蘆雪とも表記される。は、政勝、魚。は氷計、引裾。通称、主計。芦雪の他、別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。

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宮島八景図(1帖8図のうち) 重要文化財 文化庁保管
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『紅葉狗子図』[1] 1790年頃 絹本著色 ウォルターズ美術館

略歴

要約
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大原女

丹波国篠山に生まれる。後記の南紀滞在の際に芦雪自身が、自分の父がはじめ篠山城主(篠山藩)青山下野守(青山忠高)に、その後山城国淀藩に出仕した上杉彦右衛門であると述べたという資料が残っている。同時代の高名な絵師と比べるとその履歴を示す資料は少なく、いつ応挙の弟子になったかさえはっきりとはわからない。現存中で最も早い時期の作「東山名所図屏風」(紙本銀雲淡彩六曲一隻、個人蔵)安永7年(1778年)芦雪25歳の時には応挙に弟子入りしていたことがわかる。ただ、落款から応挙入門以前と思われる作品も発見され、入門前から十分な力量を持っていた。

33歳のとき、紀州の禅寺である無量寺に、応挙がかねて約束していた、大津波で壊れた本堂の再建後に飾る画を、応挙の命で同寺の愚海和尚に同道して届けた[2]。この1786年から1787年天明6年から7年)、南紀に滞在した折に多くの障壁画を残している。無量寺の本堂襖絵の『龍虎図』は芦雪の描いたもので、彼の傑作の一つとされている。現在、串本の無量寺、古座の成就寺、富田の草堂寺、田辺の高山寺に計180面の障壁画が残り、無量寺境内には応挙芦雪館が開設されている。

30代のとき妻の流産を経て娘を得たが、満2歳で亡くし、その後生まれた息子も2歳で亡くしている[3]

1788年の京都の天明の大火の後に応挙一門が参加した御所の復興事業や、一門を挙げて参加した兵庫の大乗寺の障壁画作成に活躍した[2]

伝承には、芦雪は隻眼であったとするものもある。ある藩主の前で得意技芸の一つであったコマ廻しを披露していた時誤って目にあたったという。ただし、何ら確かな話ではない。芦雪の性格は奔放で、ある意味快活である一方、傲慢な面があったと伝えられる。そのせいか、「後年応挙に破門された」というような悪評とも言うべき根拠不明な巷説や異常な行動を伝える逸話は多い。その最たるものがその死である。毒殺とも自殺とも言われ、少なくとも普通の死ではなかったとされてきたが、これも事実は不明である。

その絵は伝えられる性格そのままに、自由奔放、奇抜なもので同時代の曾我蕭白伊藤若冲とともに「奇想の画家」(辻惟雄評)、「奇想派」などと言われる。黒白、大小の極端な対比や、写実を無視した構図など師である応挙の作風から逸脱しており、この傾向は南紀滞在の折の障壁画にはっきり表れている。作風は基本的に明るく軽快であるが、晩年になって『山姥』のような時折グロテスクで陰惨な印象の作品も残した。更に、油彩画風の作品や、後の朦朧体を思わせるよな作品もある。

なお、芦雪がしばしば用いる「魚」朱文氷形印は、天明5年(1785年)頃から使い始め、寛政4年(1792年)5月頃に右上が大きく欠損し、作品の制作年代を知る上で指標の一つとなる。この印章に関する逸話として、芦雪が修行時代に寒い冬の朝、往きの途中の小川が凍り、魚がその中に閉じ込められ苦しげであった。気になって帰りに覗いてみると、氷がだいぶ溶け、魚は自由に泳ぎ回っていた。次の日、芦雪が応挙にこのことを話すと、自分も修行時代は苦しかったが、そのうち次第に氷が溶けるように画の自由を得たのだと諭され、これを肝に銘じるため終生この印を使い続けたという。「魚」朱文氷形印は現存しているが、実際に故意に割った形跡があり、おそらく画の自由を得た決意表明として芦雪自身が故意に割ったと考えられる[4]

芦雪は『大仏殿炎上図(個人蔵)』と題される、方広寺大仏殿(京の大仏)が炎上する様を描いた抽象的な絵を残している[5]。当時日本最大規模の木造建築であった方広寺大仏殿は、寛政10年(1798年)に落雷による火災のため焼失したが、それを描いたものである。落款に「即席漫写 芦雪」とあり、実際に方広寺大仏殿が焼け落ちゆくのを眺めながら、それを描いたとされる。

芦雪の後は、養子と言われる長沢芦洲、さらに蘆州の子長沢芦鳳が継ぎ、芦鳳は芦雪の肖像画を描いている(千葉市美術館蔵)。

姓および号の表記について

姓については「長沢」「長澤」、号については「芦雪」「蘆雪」の両様の表記が行われている。表記については、「さわ」は常用漢字体の「沢」を用い、「ろ」は印刷標準字体で、かつ、画家本人が作品の署名に用いている「」を用いて、「長沢蘆雪」と表記するのが適切だとする意見がある[6]。一方、現代では「芦雪」表記が優勢であり、「『長沢蘆雪』と表記すると、「沢+蘆」の組み合わせが「新字+旧字」に見えて不自然だとの意見もある[7]

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作品

障壁画

  • 無量寺障壁画 (和歌山県串本町串本応挙芦雪館) 天明6年(1786年) 重要文化財
    • 内訳は『薔薇図(薔薇に鶏・猫図)』紙本著色 襖8面、『虎図』『竜図』紙本墨画 襖各6面、『群鶴図(芦に鶴図)』紙本墨画 襖6面壁貼付1面、『唐子遊図(唐子琴棋書画図)』紙本墨画 襖8面。天明6年(1786年)。現在これらの襖絵は収蔵庫内で展示されており、本堂には精巧な複製がはめられている。
  • 成就寺障壁画 (和歌山県串本町、和歌山県立博物館寄託) 天明6年(1786年重要文化財
    • 内訳は『山水図』紙本墨画 襖5面、『群雀図』絹本著色 天袋4面、『曹孟徳図』紙本墨画 襖8面、『唐獅子図』紙本墨画 襖12面、『林和靖図』紙本墨画 襖7面壁貼付1面、『花鳥群狗図』紙本著色 襖8面。本作は蘆雪が現地で描いたのではなく、京都で描いて南紀へ送ったか、蘆雪が持ってきた可能性が指摘されている。
  • 草堂寺障壁画 (和歌山県白浜町) 天明7年(1787年)重要文化財
    • 内訳は本堂の『虎渓三笑図』紙本墨画 襖8面、『群狗図』紙本墨画 障子腰6面(現在は六曲屏風に改装)、『五祖栽松・焚経図』紙本墨画 襖4面(現在は二曲一双屏風に改装)、『虎図』紙本墨画 襖8面、『枯木鳩図』紙本墨画 襖12面、『竹に鶴図』紙本墨画 襖6面、『蛙図』紙本墨画 障子腰2面(現在は二曲屏風に改装)、『牛図』紙本淡彩 襖8面、『月下渡雁図』紙本墨画 障子腰6面(現在は六曲屏風に改装)。南書院の『張良吹笛図』紙本墨画 襖2面、『征師図』紙本墨画 襖4面、『朝顔図』紙本墨画 襖4面。
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錦江山無量寺障壁画 (和歌山県串本町串本応挙芦雪館)のうち『虎図』

主要作品一覧

さらに見る 作品名, 技法 ...
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『白象黒牛図屏風』

脚注

参考資料

関連項目

外部リンク

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