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円筒分水
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円筒分水(えんとうぶんすい)は、農業用水などを一定の割合で正確に分配するために用いられる利水施設。円筒状の設備の中心部に用水を湧き出させ、円筒外周部から越流、落下する際に一定の割合に分割される仕組みとなっている。地域によっては円形分水(えんけいぶんすい)、円筒分水槽(えんとうぶんすいそう)、円筒分水庫(えんとうぶんすいこ)などとも呼ばれる。土木工事分野では「円筒分水工」(えんとうぶんすいこう、英: circular tank diversion works[1])と呼ばれる。原義は工事の名称だが、完工した設備についても同様に呼ばれる。

見た目の美しさから、地元が観光資源としてPRしている円筒分水もある。[2]
構造
図の例では、(1)、(2)、(3) はそれぞれ 3:2:5 の割合で分配される。
サイフォンの原理などを利用して円筒中心部に水を導き、その水が円筒外縁部を越流する際に外縁部に設けた仕切りで分配するものや、外縁部に設けた穴の数によって分配するものなどがある。
右図は外縁部を越流させる構造の場合を図示したもので、外縁部に設ける仕切りの間隔とその比率で、用水が正確に分配される。 仕切りの間隔がそのまま分水比を示すため、分配される水量が外観から把握でき、流量を勝手に変更するような不正が行われにくい。
歴史

農業用水の厳正な管理と配分、それに伴う係争は三州水利論争のように世界中で見られる。
水田耕作が主体であった日本でも、各地で農業用水の確保にまつわる紛争(水論、水争い)が絶えず、大正年間より正確な配水が可能な分水樋が考案され、各地で似た構造の施設が造られ始めた。第1号の円筒分水工は可知貫一が発明したもので、1914年(大正3年)に小泉村 (岐阜県可児郡)に設置された[3]。
当初は高低差を利用して導水する方式のものが造られ、1934年(昭和9年)になると福島県や長野県などで地下から吹き上げる方式のものが造られるようになった。ただし長野県に造られた施設では円筒を使わず、分水樋の中央に吹き上げられた水が放射状に拡がる原理を利用したもので、流水量に偏りが生じるといった欠点もあった。
上記の欠点を克服するために、円筒状に組んだコンクリート設備の中心にサイフォンの原理で導水し、円筒を越流させて分水する方式が考案された。この方式を採用したのが神奈川県川崎市高津区久地にある久地円筒分水(国の登録有形文化財)で、同地にあった二ヶ領用水の分水樋の改修に際し、1941年(昭和16年)に造られたものである。この方式により平地の用水路でも正確な分水を実現できたため、以降、同様の方式のものが全国各地に造られるようになった。
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現存する円筒分水
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初期

- 疣岩円形分水工(宮城県刈田郡蔵王町)
- 四ヶ堰円筒分水(信濃川水系、長野県塩尻市)
- 音無井路十二号分水(別名「音無井路円形分水」。大野川水系、大分県竹田市)
- 烏嶽円形分水(奥岳川水系、大分県豊後大野市緒方町)
現代
- 貝田新円筒分水槽(片貝川水系、富山県魚津市貝田新)と東山円筒分水槽(片貝川水系、魚津市東山)
- 両円筒分水槽は1955年(昭和30年)完成。魚津市土地改良区所有。東山円筒分水槽は鉄筋コンクリート造り、直径9.12m、高さ約2.5m、面積317平方メートル[7][8]。片貝川を挟み、上部(左岸)にある貝田新円筒分水槽から湧き出す水は、片貝川の川床を横断する直径1mの2本の地下サイフォン管(地下5.5m)を通じて、下部(右岸)の東山円筒分水槽の出口(直径2.4m)に湧き出し、河岸段丘側の天神野用水、扇状地側の青柳用水、東山用水に分配される。片貝川が急流のため、東山円筒分水槽では湧き出す水の落差が大きく「日本一美しい円筒分水槽」といわれる[7][9]。2009年(平成21年)に、「とやまの文化財百選(とやまの近代歴史遺産部門)」に選定、また魚津市水循環遺産に登録されているほか、うるおい環境とやま賞「水の賞」を受賞している[7]。東山円筒分水槽は2020年(令和2年)4月3日、国の登録有形文化財に[10][9]、2021年(令和3年)度、土木学会選奨土木遺産にそれぞれ登録された[11]。
- 蓼科湖円筒分水工(上川水系、長野県茅野市北山)
- 著名観光地にもなっている農業用溜め池の蓼科湖が貯水する上川支流滝ノ湯川の支流、小斉川の水を分水するために湖とともに1952年完成。滝之湯堰土地改良区所有。直径7m。現在蓼科湖の東岸沿いに流れる江戸時代整備の灌漑用水「滝之湯
堰 」(茅野市北山芹ヶ沢区・糸萱区と同市豊平・湖東の計16区を灌漑)は古来から滝ノ湯川で分水したのち、小斉川を渡る地点で同川からも取水していたが、1930年から蓼科高原の別荘地経営を開始した地元の諏訪郡北山村湯川財産区(現・茅野市北山湯川財産区)が1933年、別荘地に水を供給するために小斉川湧水部をコンクリート構造物で固め引水を行ったことで滝之湯堰と湯川区が数年にわたり激しく対立。それを契機に戦後両者負担で財産区有地の湯川区中山地籍に蓼科湖が築造された際、その水を江戸時代の定め通りに滝之湯堰に9、久保田堰(茅野市北山芹ヶ沢区除平など4地籍と同市北山湯川区久保田地籍を灌漑)に1の割合で分水するために湖の南西築堤下に円筒分水工が設けられた。外縁部を越流した水を仕切りで分水する方式で、滝之湯堰への水は地下トンネルで送水され下流部で合流している。
- 著名観光地にもなっている農業用溜め池の蓼科湖が貯水する上川支流滝ノ湯川の支流、小斉川の水を分水するために湖とともに1952年完成。滝之湯堰土地改良区所有。直径7m。現在蓼科湖の東岸沿いに流れる江戸時代整備の灌漑用水「滝之湯
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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