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前田康介
日本のプロ野球選手 (1945-) ウィキペディアから
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前田 康介(まえだ こうすけ、本名:前田 康雄〈まえだ やすお〉、旧姓は北尾、1945年2月21日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。1972年に登録名を「前田康介」に改め、現役引退後も同名義を使用した。
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来歴・人物
愛媛県出身。松山北高校では、1960年に1年生エースとして秋季県大会決勝に進出。松山商の山下律夫と投げ合い、敗退するが注目を集める。1962年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、村上公康のいた西条高に延長10回の熱戦の末に敗退。
卒業後は東洋大学に進む。東都大学リーグでは、在学中は二部リーグにとどまるが、1966年秋季リーグ後の入替戦で一部リーグの芝工大を降し、後輩に後を託した。大学同期に上垣内誠がいる。
卒業後は電電四国に入社、1968年の都市対抗野球大会に高知相互銀行の補強選手として出場。翌年の大会も電電四国の主戦投手として連続出場を果たす[1]。この時のチームメートに小金丸満がいた。1969年のドラフト会議においてロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から1位指名を受け入団(2位は小金丸であった)。
主にシュート、カーブを武器とし、1970年にはルーキーながら日本シリーズに登板。入団2年目となる1971年シーズンにプロ初勝利を記録する。主に中継ぎ投手として起用されたが、入団3年目の1972年には19試合の登板で0勝5敗の防御率5点台と不振に陥り、翌1973年は1試合のみの登板に終わった。同年オフに戦力外通告を受け、間もなく太平洋クラブライオンズ(後の埼玉西武ライオンズ)に移籍。しかし太平洋でも一軍登板機会は移籍1年目の4試合のみに留まり、1976年限りで現役を引退した。
引退後もライオンズ球団に在籍し、1978年にはスコアラー、1980年以降は打撃投手を務め、その後球団フロント入りする。スコアラー時代は名スコアラーと評され一流の分析力で的確な指示を出すプロだったという[2]。2011年シーズンまで取締役球団本部長職を務め、同年の公式戦全日程終了をもって退団した[3]。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
背番号
- 16 (1970年 - 1972年)
- 14 (1973年)
- 30 (1974年 - 1975年)
- 62 (1976年)
- 84 (1980年 - 1981年)
- 93 (1982年 - 1991年)
- 01 (1992年 - 1993年)
登録名
- 前田 康雄 (まえだ やすお、1970年 - 1971年)
- 前田 康介 (まえだ こうすけ、1972年 - 1976年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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