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北畠治房
日本の明治時代の政治家・司法官、男爵 ウィキペディアから
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北畠 治房(きたばたけ はるふさ、1833年2月20日(天保4年1月1日[1]) - 1921年(大正10年)5月4日[1][2])は、江戸時代末期の勤皇家、明治時代の司法官。旧名は平岡 鳩平(ひらおか きゅうへい)、平岡 武夫(ひらおか たけお)。維新後、南朝の功臣北畠親房の末裔を自称し、北畠治房と改名した。
経歴
要約
視点
生い立ちと勤王家としての活動
天保4年(1833年)1月1日、大和国平群郡法隆寺村(現:奈良県生駒郡斑鳩町)で誕生[3]。父は平岡久兵衛[4](北畠末重とも[5])、母は筒井村の宮井伊右衛門の娘であった[4]。次男とも[6]、四男ともいう[3][5]。平岡家は中宮寺の宮仕人をしていたと伝えられる[3]。嘉永2年(1849年)2月に家督を相続する。はやくから碇圓意に漢学を、尾崎庄左衛に国学を、柴田多輔に武術を学ぶ[5]。四方に遊学し、尊王攘夷を唱えて伴林光平や乾十郎といった志士と交友した[6]。
文久3年(1863年)8月13日の孝明天皇大和行幸を契機に中山忠光に謁見し、名を平岡武夫にあらため、天誅組の一員として転戦した[6]。天誅組の変が失敗に終わった後は京都や大坂を転々とし[7]、元治元年(1864年)には天狗党の乱にも加わった[3]。その後、大場一真斎や橋本若狭と共謀して薩摩に逃れる。同地で忠勇隊を組織[6]。明治維新に際して、同志を率いて駿府の有栖川宮熾仁親王のもとに向かい[6]、爾来、作戦行動をともにする[5]。この頃、北畠治房を名乗るようになる[6]。
官僚としての経歴とその後
明治初期に東京に居を移し、勤王家として大隈重信の寵愛を受ける[4]。明治4年(1871年)に正院御用を任ぜられ、翌明治5年(1872年)に左院中議生となる[5]。明治6年(1873年)、政府は目安箱を廃止し、上書などの提出先を集議院に定めたが、これは北畠の建言によるものだったという[3]。その後、司法省にて権少判事・少判事・権中判事・判事をつとめ、その間、京都裁判所長・横浜裁判所長・大審院判事を歴任する[5]。明治14年(1881年)、明治十四年の政変により、大隈系の官僚のひとりとして免官となる[3]。この間、河野敏鎌・牟田口元學・春木義彰・中野武營らとともに修進社を興し[5]、明治15年(1882年)には立憲改進党の結成に参画した[3]。
明治20年(1887年)に再仕官し、東京控訴院検事長となる。その後、同院評定官・大審院評定官を経て、明治24年(1891年)に大阪控訴院長となる[5]。1896年(明治29年)6月5日[8]、司法官としての長年の功労および[3]、王政復古への勲功を評価され、正二位階および男爵を叙爵した[6]。明治31年(1898年)に司法官を辞職[6]。1908年(明治41年)5月9日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[9]、1911年(明治44年)7月9日に任期満了となった[2]。晩年は郷里の法隆寺村に隠棲した[3]。1921年(大正10年)5月4日逝去[1][2]。
北畠の法隆寺村の邸宅を布穀園と号し、1954年(昭和29年)から斑鳩町の結婚式場として用いられた[10]。この邸宅は、2014年(平成26年)より「和CAFE 布穀薗」となっている[11]。
親族
栄典
- 位階
- 勲章等
脚注
参考文献
関連項目
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