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原田信吉
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原田 信吉(はらだ しんきち、1934年8月15日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。
来歴・人物
卒業後の1953年に広島カープへ入団し、2年目の1954年1月のフィリピン遠征で注目される[1]。小鶴誠が欠場したために全試合(11勝1敗)に出場し、3戦目までに10打数6安打の活躍ぶりで3番に抜擢されて一軍に定着[1]。主に中堅手、右翼手として26試合に先発出場。3年目の1955年には三塁手に回り、磯田憲一らと定位置を争う。1956年は7月24日の国鉄戦(山口)で金田正一から決勝ソロ本塁打を放つが、試合後に金田に呼ばれて「どんな考えで打席に入っていたんや」と聞かれた[1]。原田は打たれた原因をすぐ究明するあたりさすが大投手だと思ったが、金田の大きなカーブは打てないためストレートだけを待っていた[1]。8月11日の巨人戦(下関)では、延長10回に豪速球の別所毅彦から放った殊勲のサヨナラ安打を放つ[1]。カープが最も苦手にした大友工にも強く、原田は狙い球を絞り、狙った球が来るまで徹頭徹尾待った[1]。1957年は開幕からレギュラーとして起用されたが、8月から故障で欠場し、一軍出場がゼロに終わった1961年限りで現役を引退。
引退後は郷里・尾道で割烹料理店を10年間(1962年 - 1972年)経営し、その間に友人の勧めでゴルフを始める[1]。1年でシングル(H3)になり、関西アマに出場したほどの腕前となる[1]。1973年には土木建築会社を創業し、順調に成長を続けて来たが、1991年には脳溢血で倒れる[1]。右半身に後遺症が残るが復帰し、従業員や下請け会社のために陣頭指揮を執った[1]。1997年8月に先行き不透明な不景気の影響をもろに受ける事態になり、受注先が倒産[1]。4000万円が回収不能になったが、倒産防止保険を満期になった後も十数年受け取らずにいたため融資を受けることが出来てピンチを脱した[1]。そんな時に窮状を見かねた友人が「原田さんのお陰でここまで来られた。恩返しをしたい」と3000万円を持って来て、原田が丁重に断ると翌日に再び夫人を伴って来て「この金(1000万円)は返して貰わなくてもいい。何としても受け取って欲しい」と言った[1]。流石に剛毅な原田も友人の熱い思いに感極まって男泣きし、友人の好意を有り難く受け取る代わりに同額の銀行株を手渡した[1]。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 29 (1953年 - 1954年)
- 9 (1955年 - 1957年)
- 24 (1958年 - 1960年)
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脚注
関連項目
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