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吉良修一

日本のプロ野球選手 (1949-) ウィキペディアから

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吉良 修一(きら しゅういち、1949年4月23日 - 2024年4月18日)は、大分県[1]出身の元プロ野球選手

概要 基本情報, 国籍 ...

来歴・人物

大分県立津久見高等学校では2年生の時、1966年夏の甲子園に控え投手として出場するが、チームは1回戦で報徳学園に敗れる[2]。吉良は予選では起用されたが、甲子園本大会での登板機会はなかった。しかし同年秋の大分剛健国体では決勝に進み先発で起用される。松山商西本明和と投げ合い0-1で惜敗、準優勝にとどまる。1年上のチームメートに四番打者、三塁手岩崎忠義、エースの三浦保雄がいる。

1967年春の選抜にはエースとして出場[1]。各試合とも1、2点差の接戦であったが、吉良の好投で勝ち上がる。決勝では延長12回の熱戦の末、弘田澄男のいた高知高を2-1で降し優勝を飾った[3]。同年夏は県予選準決勝でエース河原明を擁する大分商に0-1で惜敗、甲子園出場はならなかった。1年下のチームメートに大田卓司左翼手がいる。

同年のドラフト会議阪神タイガースから2位指名を受け入団[1]。入団2年目の1969年に一軍初登板を果たし、同年のジュニアオールスターにも出場する。1972年8月5日には読売ジャイアンツを相手に初先発を果たすが、1回に打ち込まれ降板、敗戦投手となる。しかし同年10月15日の最終戦で先発、8回1失点の好投でヤクルトアトムズからプロ初勝利。1974年も1勝を挙げるが、その後は登板機会がなく1976年オフに退団した[1]

甲子園優勝投手で非常に期待されたが伸び悩み、一軍ではあまり活躍できなかった。武器はスライダーカーブだが、速球がシュート回転する弱点があった。引退後は建設会社に勤務した。

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

記録

背番号

  • 39 (1968年 - 1969年)
  • 47 (1970年 - 1976年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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