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同志クラブ

1947年から1948年まで衆議院に存在した院内会派 ウィキペディアから

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同志クラブ(どうしクラブ)は、1947年11月28日から1948年3月12日まで衆議院に存在した院内会派。本項目では、その後継会派で1948年3月12日から同年3月15日まで存在した民主クラブ(みんしゅクラブ)についても併せて解説する。

概要

1947年の第23回衆議院議員総選挙後の政界は、ハングパーラメント状態にあり、革新政党の日本社会党、戦前からの保守二大政党の一翼を担う民主党、中道の国民協同党連立により片山内閣が成立していたが、民主党の内部には連立内閣に対する不満があった。これに対して野党にあった保守二大政党の雄・日本自由党(以下自由党)は民主党に合同、「保守新党」の結党(保守合同)を呼びかけた。

これに対して民主党は、芦田均幣原喜重郎の二派にわかれて対立する。元々民主党は、前身の日本進歩党が、自由党を吉田茂総裁との不和が原因で脱党した芦田を総裁として迎え入れたことによって成立した経緯があり、社会党との連立も、芦田と近い左派が主導しており、進歩党から合流した幣原と近い右派は反対していた。連立政権成立後も、右派は、連立を離脱して自由党と合同すべきであると主張した。

1947年11月、社会党が強力に推進していた臨時石炭鉱業管理法が提出されると、幣原派は炭鉱国営化は日本の社会主義化につながるとして激しく反対した。だが、11月11日の民主党代議士総会において芦田派の賛成多数によって賛成が決定された。11月20日には自由党とともに審議妨害を図ったとして幣原派の降旗徳弥が民主党を除名処分となった。これに激昂した幣原派は5日後の11月25日本会議採決で反対票を投じ、与党内野党に転じた。これに対して民主党は工藤鉄男佐々木秀世原健三郎ら7名を除名、幣原喜重郎・根本龍太郎田中角栄ら15名に離党勧告を出した。これに対して幣原ら13名は直ちに離党し、11月28日には上記20名と降旗、後から離党した4名を合わせた25名で同志クラブを結成した。

その後、1948年2月に田中萬逸ら3名も合流したが、同志クラブと自由党の合同が決定される。3月12日には無所属であった民主党離党組をさらに吸収する形で一旦民主クラブ(36名)へと改称した後、3日後の3月15日に民主クラブは日本自由党と合流して民主自由党が発足した(法的には自由党・民主クラブ解散に伴う新党結成)。後に民自党は民主党を含む連立政権の崩壊を受けて第2次吉田内閣を組織、下野した民主党の分裂後に右派の議員を吸収して自由党へと再改称し、占領期後半のいわゆる逆コース時代の政治を牽引することとなる。

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