和田昌裕
日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから
和田 昌裕(わだ まさひろ、1965年1月21日 - )は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。次男の和田篤紀[2] および三男の和田倫季[3] もサッカー選手である。
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名前 | ||||||
カタカナ | ワダ マサヒロ | |||||
ラテン文字 | WADA Masahiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1965年1月21日(60歳)[1] | |||||
出身地 | 兵庫県神戸市[1] | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 69kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF / DF | |||||
ユース | ||||||
1980-1982 | 御影高校 | |||||
1983-1986 | 順天堂大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1987-1995 | 松下電器/ガンバ大阪 | 152 | (15) | |||
1995-1998 | ヴィッセル神戸 | 46 | (2) | |||
通算 | 198 | (17) | ||||
代表歴 | ||||||
1982 | 日本ユース | |||||
1990 | 日本 | 0 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2009 | ヴィッセル神戸 | |||||
2010-2012 | ヴィッセル神戸 | |||||
2014 | チョンブリー | |||||
2015 | 京都サンガF.C. | |||||
2015-2016 | ポートFC | |||||
2016 | シーサケート | |||||
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来歴
要約
視点
選手時代
神戸FCでプレーしていた兄の影響で小学2年生のときにサッカーを始める[4]。1982年8月に開催されたAFCユース選手権1982 (予選)の日本代表に選出された[5]。1983年の兵庫県立御影高校3年次に同校にとって初の全国高校サッカー選手権大会出場(1回戦で準優勝した山梨県立韮崎高校に敗退)[4]。近くの御影工業高校には永島昭浩がおり、同学年の和田と永島はライバルと周りから目されていた[6]。順天堂大学蹴球部では1年次に総理大臣杯に優勝[7]。筑波大学との決勝戦では和田のゴールにより1-0で勝利した[7]。
1987年に日本サッカーリーグ2部の松下電器産業サッカー部(1992年からガンバ大阪)に入部。三菱重工からも誘われたが関西のチームであることと永島がいることから松下に決めたという[6]。JSL1部に復帰した1988-89シーズンにはアシスト王(9アシスト)にも輝いた[8]。1990年7月のダイナスティカップ1990の日本代表に選出された(出場は無し)[9]。
1993年5月16日のJリーグ開幕戦の浦和レッズ戦では前半29分にG大阪のリーグ戦チーム初得点を記録した[7]。
1995年7月[7][10]、G大阪から生まれ故郷であるヴィッセル神戸(当時ジャパンフットボールリーグ (JFL) 所属)に移籍した。1996年のJリーグ昇格に貢献し、1998年に現役を引退した。
現役時代は主に左サイドバックでプレー。
引退後
引退後は神戸のスタッフを歴任。2005年はヘッドコーチ、2006年からは強化部長、2007年からはチーム統括本部長を務め、2009年6月、カイオ・ジュニオールの辞任表明を受け、トップチームの監督に就任 [11]。わずか5試合を指揮したところで三浦俊也に交代したが、フロントには戻らず、ヘッドコーチとして引き続き現場での指導者職に就いた。
2010年9月12日に三浦の監督解任を受け、再び神戸の監督に就任。「用意周到」「一致団結」「プライド」「信頼」のキーワードで自らの考えを選手に示し、スタメンから遠ざかっていたMF吉田孝行、2種登録のFW小川慶治朗を抜擢するなど、前監督とは異なるスタイルでチームを指揮。シーズン終盤7試合では戦術が浸透し、上位チームにも屈さず見事大逆転でのJ1残留を成し遂げた。2011年も引き続き監督を続投。和田自身は初の1シーズン通しての監督業だったがクラブ史上最高順位となる9位でシーズンを終えた[12]。
翌2012年は目標を「AFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得する4位以内」としたが[13][14]、リーグ戦・ナビスコ杯で通算6連敗するなどし、リーグ戦では第8節時点で3勝5敗の13位に低迷。成績不振を理由に同年4月30日付で監督を解任された。同年7月1日付で神戸のシニアディレクターに就任[15]。
2013年2月1日より神戸の運営会社のクリムゾンフットボールクラブの取締役副社長に就任したが[16]、松下電器~ガンバ大阪時代のコーチであったヴィタヤ・ラオハクルに誘われ、同年11月末でクリムゾンフットボールクラブ副社長を辞任し、ヴィッセル神戸の提携クラブでもあったタイ・プレミアリーグのチョンブリーFCの監督に就任[17][18]。タイ・リーグの日本人監督には滝雅美がいたが、1部で指揮する日本人監督は和田が初となった[19]。チョンブリーではリーグ戦でブリーラム・ユナイテッドと最後まで優勝争いを演じ[19]、2014年シーズンのタイ・プレミアリーグ年間最優秀監督賞を受賞した[19][20]。
2014年12月、J2・京都サンガF.C.から2015年シーズンの監督就任が発表された[1] が、2015年7月10日に成績不振により解任された。解任時点でチームは18位と低迷していた[21]。
2015年10月22日、タイ・プレミアリーグのポートFCの監督に就任したが[22]、ディビジョン1降格を回避することができず、翌2016年も続投したが、7月11日に成績不振により解任された。
2016年9月1日、タイ・プレミアリーグのシーサケートFCの監督に就任。1部残留を果たし、シーズン終了後に退任。
2016年12月、ツエーゲン金沢代表取締役ゼネラルマネージャーの西川圭史からオファーを受け、同クラブの強化・アカデミー本部長に就任。トップチームおよびアカデミーの現場とフロントを一つにまとめる役割を担った[23][24]。
2020年1月31日、家庭の事情により金沢の強化・アカデミー本部長を退任[25]。同年2月4日にG大阪の強化アカデミー担当参与に就任した[26]。同年4月14日にG大阪の取締役GMに就任[27]。2023年シーズンをもってG大阪のGMに退任した[28]。
2024年シーズン、ツエーゲン金沢のGMに就任した。
所属クラブ
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/Jリーグカップ | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1987 | 松下 | 25 | JSL2部 | 22 | 11 | 2 | 0 | ||||
1988-89 | 17 | JSL1部 | 20 | 1 | 0 | 0 | |||||
1989-90 | 21 | 1 | 1 | 0 | |||||||
1990-91 | 12 | 18 | 0 | 1 | 0 | ||||||
1991-92 | 9 | 22 | 0 | 3 | 0 | ||||||
1992 | G大阪 | - | J | - | 9 | 0 | 3 | 0 | 12 | 0 | |
1993 | 34 | 2 | 6 | 0 | 2 | 0 | 42 | 2 | |||
1994 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | |||
1995 | 12 | 0 | - | 0 | 0 | 12 | 0 | ||||
1995 | 神戸 | 4 | 旧JFL | 16 | 2 | - | 3 | 0 | 19 | 2 | |
1996 | 7 | 30 | 0 | - | 3 | 0 | 33 | 0 | |||
1997 | J | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | ||
1998 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
通算 | 日本 | J | 49 | 2 | 17 | 0 | 7 | 0 | 73 | 2 | |
日本 | JSL1部 | 81 | 2 | 5 | 0|||||||| | ||||||
日本 | JSL2部 | 22 | 11 | 2 | 0|||||||| | ||||||
日本 | 旧JFL | 46 | 2 | - | 6 | 0 | 52 | 2 | |||
総通算 | 198 | 17 | 24 | 0|||||||| |
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 1試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 5試合0得点
指導歴・職歴
監督成績
タイトル
選手時代
- 順天堂大学
- 総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント:1回(1983)[7]
- 松下電器産業サッカー部/ガンバ大阪
- 日本サッカーリーグ アシスト王:1回(1988-89)
- 天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会:1回(1990)
個人
- タイ・プレミアリーグ 年間最優秀監督賞:1回(2014)[19]
脚注
関連項目
外部リンク
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