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国塩耕一郎

内務官僚、官選県知事 ウィキペディアから

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国塩 耕一郎(くにしお こういちろう、1905年明治38年)9月6日[1] - 1986年昭和61年)6月7日[1])は、昭和期の内務警察官僚実業家。最後の官選茨城県知事日本音楽著作権協会理事長。

経歴

岡山県赤磐郡(後の山陽町、現在の赤磐市)で、国塩達太の長男として生まれる[1][2]静岡県立静岡中学校[3]第一高等学校を卒業[4]1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科試験に合格。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し広島県属となる[1][2][4]

以後、地方警視・愛知県警察部保安課長を経て[2]1935年(昭和10年)8月、警視庁警視・保安課長に就任。警官音楽隊(警視庁音楽隊)を創設した[5]1937年(昭和12年)7月21日、内務省警保局図書課勤務となりプラーゲ旋風への対策に当たる[5]。内務省警保局では著作権を担当し、著作権仲介業務団体の存立基盤である「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律」(昭和14年制定)を立案し、この法律に基づくJASRAC(当時の名称は「大日本音楽著作権協会」)の成立に深く関わった[6]。JASRACの生みの親と言える。さらに、情報局勤務、厚生省勤労局配置課長などを歴任[2]

厚生省職業局技能課長に在任の1943年(昭和18年)夏、軍用石油の確保のため100トン級小型木造船の大船団による石油輸送計画を立てた人物が、木造船建造のための技術者の確保について依頼してきた。国塩が艦政本部に伝えると、木造小型船で荒天の南シナ海を航行するのは無理と反対され、そのことを依頼者に伝えると、艦政本部や政府の行政まで批判してきた。国塩が反論すると、後日、東京憲兵隊に連行され「東條内閣を打破せよと叫んだのは本当か」と尋問された[5]。国塩は政府の戦争遂行政策への疑問をいだくようになり、同年末に辞表を提出し1944年(昭和19年)7月に退官した[2][5]

終戦を迎え、戦後の混乱収拾のため官界に復帰を決意し、1945年(昭和20年)9月、広島県教育民生部長に就任[5]終戦連絡中央事務局部長[2]を経て、1947年(昭和22年)3月14日、茨城県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月12日に知事を退任[7]。同年7月2日、経済安定本部監査局長に就任[8]1948年(昭和23年)8月1日、中央経済調査庁査察部長に就任し1949年(昭和24年)12月22日に退官した[5][9]

その後、日本音楽著作権協会会長、同理事長、同顧問、ニッタ相談役、チヨダシューズ取締役などを務めた[1]

1960年(昭和35年)11月20日執行の第29回衆議院議員総選挙静岡県第1区から民主社会党公認で立候補したが落選した[10]

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人物

趣味は野球、西洋音楽[2][11]。宗教は日蓮宗[2][11]。住所は東京都武蔵野市吉祥寺[2]、世田谷区中町

家族・親族

国塩家
親戚

著作

  • 『近代社会思想の解説』松華堂書店、1933年。
  • 国塩他『最新警察教科書』法制時報社、1933年。
  • 『決戰國民動員』同盟戰時特輯;20、同盟通信社、1944年。
  • 『国塩耕一郎著作権論文集』日本音楽著作権協会、1987年。
訳書
  • 『職業檢査』技能研究資料;第1輯 職業協會、1941年。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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