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坂倉準三
日本の建築家 (1901-1969) ウィキペディアから
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坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の建築家。
ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけ、日本のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、世界でも高い評価を受けた。
妻は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007)。息子に同じく建築家の坂倉竹之助、孫にはヒップホップMCのSPHEREがいる[1]。
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経歴
- 1901年(明治34年) - 岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(現・羽島市)で酒蔵である千代菊の坂倉又吉の4男として生まれる。
- 1916年(大正5年) - 岐阜県立岐阜中学校に入学。
- 1920年(大正9年) - 第一高等学校文科入学。
- 1923年(大正12年) - 東京帝国大学文学部入学。
- 1927年(昭和2年) - 東京帝国大学文学部美学美術史学科美術史卒業。
- 1928年(昭和3年) - 兵役に就く。
- 1929年(昭和4年) - フランスに渡り、パリ工業大学で学ぶ。渡仏したのは徴兵を逃れるためであったという。
- 1931年(昭和6年) - 前川國男の紹介でル・コルビュジエの建築設計事務所に入る。
- 1936年(昭和11年) - 帰国。パリ万博の日本館建設のため、再びフランスへ。
- 1939年(昭和14年) - コルビュジエの仕事を手伝った後に帰国。西村伊作の次女のユリと結婚。ユリは加納久朗夫人を会長に「広尾クラブ」という文化サロンを開き、多くの文化人を招いて坂倉を支えた。
- 1940年(昭和15年) - 坂倉準三建築研究所(現・坂倉建築研究所)設立。この頃、小島威彦・仲小路彰らが創設したスメラ学塾にかかわり、川添紫郎(のちの「キャンティ (イタリア料理店)」オーナー)らと坂倉とで「スメラクラブ」という文化サロンを結成した[2]。坂倉の義父の西村伊作はスメラ思想にかぶれた婿の準三のことを、「一種の誇大妄想狂だ」と評している[3]。
- 1964年(昭和39年) - 日本建築家協会会長となる。
- 1969年(昭和44年) - 心筋梗塞のため68歳で没。正五位勲三等瑞宝章が贈られた。
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主要作品
- パリ万博日本館(1937年)
- 神奈川県立近代美術館(1951年)
- 東急百貨店東横店の西館と南館(1954年)
- 国際文化会館(1955年)
- 羽島市庁舎(1959年)
- 中産連ビル本館(1963年)
- 上野市庁舎(1964年)
- 新宿駅西口広場(1966年)
- 芦屋市民センター ルナ・ホール(1969年)
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著書・訳書
- 『選択・伝統・創造 日本芸術との接触』シャルロット・ペリアンとの共著、小山書店、1941年
- ル・コルビュジエ 『輝く都市』丸善、1956年。鹿島出版会「SD選書」、1968年
伝記
- 『大きな声 建築家坂倉準三の生涯』鹿島出版会、新装版2009年
- 『建築家坂倉準三 モダニズムを生きる』神奈川県立近代美術館編、2010年
- 松隈洋『坂倉準三とはだれか』王国社、2011年
- 松隈洋『建築家・坂倉準三 「輝く都市」をめざして』青幻舎、2021年
ドキュメンタリー
脚注
関連項目
外部リンク
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