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東急文化会館

東京都渋谷区にあった施設(1956-2003) ウィキペディアから

東急文化会館
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東急文化会館(とうきゅう ぶんかかいかん)は、東京都渋谷区にあった複合商業施設東急百貨店が所有・運営し、渋谷駅前(東口)を代表する文化施設として知られた。 1956年昭和31年)開業。2003年平成15年)閉業。建物も解体され、替わって跡地には渋谷ヒカリエ2012年(平成24年)に開業した。

概要 渋谷東急文化会館 Shibuya Tokyu Bunka Kaikan, 店舗概要 ...

「東急文化会館」[3][4]が正式名称であるが、別称「渋谷東急文化会館」を所有者も含めて用いている[5][1]

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歴史

要約
視点

建物は、日本を代表する建築家坂倉準三(坂倉建築研究所)が[3]建築構造設計を行い、舞台機構の設計については森平舞台機構株式会社(通称・モリヘイ)[4]が行った。施工清水建設が行っている[3]鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階・地上8階・塔屋3階建であった[2]。4つの映画館美容室レストラン書店などの店舗が入り、特に屋上にはプラネタリウム天文博物館五島プラネタリウム」が設置されたこともあり、東京の名所として修学旅行のコースに組み込まれるほどの人気を博した。当時の国鉄渋谷駅東口は、東京都電のターミナルであったことから、交通の混乱を避けるために、開業と同時に歩道橋が作られ、東急東横線の改札口から段差なしで文化会館にいくことができた。

しかし、1989年(平成元年)、東急百貨店本店に併設される形で日本初の大型の複合文化施設としてBunkamuraが開業し、東急グループを代表する施設ではなくなった。

2003年(平成15年)、建物の老朽化と東急東横線(渋谷駅‐代官山駅間)の地下化工事および営団地下鉄13号線(のちの東京メトロ副都心線)建設のために閉鎖し、解体され、47年の歴史に幕を閉じた。2008年(平成20年)6月14日、跡地の地下に東京メトロ副都心線が開業した。この施設の跡地は2012年(平成24年)に「渋谷ヒカリエ」として再スタートを切った。

年表

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東急文化会館(右手前)と渋谷駅(左奥)(1960年頃)
  • 1955年(昭和30年)7月 - 東急文化会館の建設着工
  • 1956年(昭和31年)
    • 5月15日 - 株式会社東急文化会館の設立。
    • 12月1日 - 東急文化会館の開館 / 運営者は株式会社東急文化会館。館内にて、同日、渋谷パンテオンも開業[1]
  • 1957年(昭和32年)
  • 1963年(昭和38年)6月 - 東急ジャーナルで「お笑い横丁」の演芸興行を開始(NETテレビ大正テレビ寄席』の公開録画を含む)。
  • 1966年(昭和41年)
  • 1969年(昭和44年)7月5日 - 東急ジャーナルが「東急レックス」に改称される。
  • 1978年(昭和53年)6月 - 東急レックスでのテレビ番組収録(『大正テレビ寄席』)終了。
  • 1982年(昭和57年)12月4日 - 渋谷パンテオンと東急名画座で『E.T.』が封切される。この映画は半年に及ぶロングランを記録し、当館史上最大のヒット作になる。
  • 1985年(昭和60年)5月31日6月7日 - 渋谷パンテオンにて、第1回東京国際ファンタスティック映画祭が開催される。以後、毎年開催されるが、いつのころか、開催時期は晩春から晩秋(10月下旬~11月上旬)へと変更される。
  • 1986年(昭和61年)6月 - 東急名画座が「渋谷東急2」に改称される。
  • 1990年平成2年)10月 - 東急レックスが「渋谷東急3」に改称される。
  • 2000年(平成12年)7月 - 東急ゴールデンホール(結婚式場・宴会場)の閉鎖。
  • 2001年(平成13年)3月11日 - 天文博物館五島プラネタリウムの閉鎖。
  • 2002年(平成14年)
    • 5月28日 - 東京急行電鉄が、東急文化会館の閉鎖および解体を発表する[2]
    • 10月下旬~11月上旬 - 当館内の渋谷パンテオンで毎年開催されてきた東京国際ファンタスティック映画祭が、18回をもって、当館で開催されるものとしては最終回を迎える[9][10]。明くる2003年(平成15年)年秋の19回からは新宿ミラノ座(新宿TOKYU MILANO内)が開催地となった[9]ものの、2005年(平成17年)開催の21回を最後に映画祭そのものが20年あまりの歴史に幕を下ろすことになる[10]
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東急文化会館(2003年)
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フロア

開館当時のフロア構成

概要 文化理髪室, 店舗概要 ...
さらに見る 階, 東急文化会館 ...

その後もテナントの入れ替えを繰り返し、過去に第一家庭電器などが、最末期には三省堂書店(5階)や東急ストア(地下1階)なども入居していた。

文化理髪室

文化理髪室は文化会館3階にあり、長嶋茂雄が贔屓にする理容室として知られていた。当施設閉館後大田区北千束に移転。店名は変えず、長嶋茂雄も変わらず来店している[6]

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映画館

要約
視点

渋谷の東口から見える大きな4つの映画看板で知られていた。以下の館名・定員はすべて閉館時のものである。

さらに見る 東急文化会館 上映作品 動員数ランキング, 順位 ...
渋谷パンテオン(1階)
定員1,119人。名称は円形劇場を意味しており、プラネタリウムを持つこの建物にちなんでいる。70mmフィルム映写機があった超大型の映画館。ル・コルビュジエ作画の緞帳『闘牛十四号』(1956年〈昭和31年〉、川島織物セルコン製作)でも知られていた[14][15]。その大きさのため、東京国際ファンタスティック映画祭など、数々のイベントの会場となった。終盤期には、主に丸の内ルーブルチェーンの映画を上映していた。
渋谷東急(5階)
定員824人。後の渋谷東急につながる映画館。ファミリー向きの映画などが多く上映されていた。松竹東急系のチェーンマスターでもある。
渋谷東急2(6階)
定員381人。開業時は東急名画座の名称で文字通り名画座であった。1986年6月に「渋谷東急2」に改称し、松竹東急系のロードショー館に転換。終盤期には丸の内ピカデリー1系の作品を中心に上映していた。
渋谷東急3(地下1階)
定員374人。開業時は東急ジャーナルとしてニュース映画を主体に低料金で映画を提供する映画館として運営されていたが、1969年7月5日より松竹東急系のロードショー館東急レックスとして運営された。以降は様々な系列の映画を上映していたが、最終期には丸の内シャンゼリゼ(現・丸の内TOEI2)などと少数館でチェーンを組み、ミニシアター向けの映画を中心に上映していた。
また、映画館としてだけではなく、東急ジャーナル時代の1957年8月からは『東急文化寄席』として土曜日と日曜日の夜間に演芸興行を行っていた。これは東宝東宝名人会を手掛けていた山田博の企画によるもので、落語協会芸術協会が隔週交互に出演して好評を博していた。また、漫才研究会(現・漫才協会)とボーイズ協会(現・ボーイズバラエティ協会)が渋谷進出を企てており、これに呼応すべく1963年6月からは月曜日の夜間に追加でテレビ番組『大正テレビ寄席』(NET→テレビ朝日)の収録を兼ねた『お笑い横丁』と題した演芸興行を行っていた。こちらの出演者の顔付けはNETと山田がそれぞれ行っており、全出演者10組のうち仲入り後の3組がテレビ中継の対象となっていた。

パンテオンで上映していた作品


旧・渋谷東急で上映された作品

渋谷東急2で上映された作品

渋谷東急3で上映された作品

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脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

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