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塩原明
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塩原 明(しおばら あきら、1940年5月30日 - 2023年1月25日[要出典])は、長野県松本市[1]出身のプロ野球選手(内野手)。
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来歴
松商学園高校では1958年の夏の甲子園に遊撃手として出場[1]。2回戦(初戦)で八女高に敗退。高校同期に三沢今朝治がいた。
1959年に読売ジャイアンツへ入団[1]。1961年に土屋正孝が国鉄にトレードされると、空いた正二塁手の座を藤本伸らと争って、後半戦を中心に48試合に出場して打率.276を記録。南海ホークスとの対決となった同年の日本シリーズでは、第2戦から先発出場し適時打を放つなど3安打の活躍。シリーズ通算16打数6安打2打点の好成績で優秀選手賞を獲得した[1]。その後も、須藤豊・船田和英らとともに二塁を守るがレギュラーの座を掴むまでには至らず、1965年に土井正三が入団すると、以降は出場機会を失ってゆき、1967年限りで引退[1]。
引退後は、朝日カントリー倶楽部(現:ザ ナショナルカントリー倶楽部 千葉)へ加入[1]。埼玉の名門「嵐山カントリークラブ」の支配人を務めた。
人物
端整な顔立ちで、スマートな体つきをした男前であった。当時人気があった水原弘を意識して、黒いスーツで上から下まできっちり固めて颯爽とネオン街に出没していたという。ある時、大勢の女性ファンをぞろぞろ引き連れて丸子橋を渡っているところを、監督の川上哲治に見つかってしまい、そのせいかにメンバー入りが確実視されていた第1回ベロビーチキャンプ(1961年)の選から漏れてしまった(代わりに西野忠臣が選ばれる)[2]。
詳細情報
年度別打撃成績
表彰
背番号
- 28 (1959年 - 1967年)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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