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大塚徹 (野球)
日本の野球選手 (1945-2018) ウィキペディアから
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大塚 徹(おおつか とおる、1945年4月18日 - 2018年7月13日)は、日本のプロ野球選手。サンケイアトムズ・ヤクルトスワローズ、南海ホークスでプレーした。茨城県土浦市出身。茨城県立土浦第三高等学校卒業。息子は元東京ヤクルトスワローズの大塚淳。
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来歴・人物
茨城県立土浦第三高等学校では、捕手として1962年秋季関東大会準決勝に進むが、宇都宮商に敗退。
1964年国鉄スワローズに入団。1964年、1965年と2年連続でジュニアオールスターに出場。しかし根来広光、岡本凱孝らの壁を破れず、1968年から外野手に転向[1]。同年は23試合に先発出場、一番打者として16試合に起用される。その後もユーティリティープレイヤーとして先発、代打、守備固めなど、臨機応変に活躍。1971年には主に左投手対策として、自己最多の60試合に先発出場を果たす。偵察要員を使い、その後に大塚か左打者の内田順三が入る例が多かった。
1971年オフの第2回選抜会議(トレード会議)の対象となり、1972年から南海ホークスに移籍。その明るい性格を野村克也兼任監督に買われ、出場機会は少なかったが、ヤジ将軍、ムードメーカーとして常時一軍に帯同していた[1]。フロントから再三整理の対象とされていたが、野村監督がゲームに出ているほどの貢献をしているとしていて、年俸もレギュラークラスはあったといわれる。大量失点で負け越していた試合で、4番である野村監督が凡打で倒れ、ベンチに戻ってくると「監督ほどの高給取りでも打てないんだから、今日はもう気楽に行きましょう!」という元気よい大塚の声で、ベンチに笑いが起きた。あぶさんの初期(1巻~8巻)にしばしば登場している。
- アトムズ 1969年9月6日 対巨人23回戦(神宮)10回1死 投手:高橋一三
- ヤクルト 1971年5月26日 対巨人10回戦(神宮)9回0死 投手:高橋一三
- 南海 1972年8月11日 対近鉄13回戦(大阪)9回1死 投手:神部年男
- 南海 1973年8月7日 対日拓後期1回戦(大阪)9回2死 投手:新美敏
カウントはすべて2-3から。1.2.3は6球目ボールで四球、4は7球目。1は代走から守備(LF)に入り回ってきた打席、2.3.4は代打。
1975年、現役引退[1]。引退後は地元土浦市中神立町でスナック「ダッグアウト」を経営[1]。1991年、土浦リトルシニア を結成し監督に就任。
2008年、第6回KOALA CUP(オーストラリア:ゴールドコースト)において、東関東選抜チームを監督として率いて優勝。
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詳細情報
年度別打撃成績
- サンケイ(サンケイスワローズ)は、1969年にアトムズに、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更
背番号
- 47 (1964年 - 1967年)
- 29 (1968年)
- 30 (1969年 - 1971年)
- 38 (1972年 - 1975年)
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関連項目
脚注
外部リンク
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