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大橋一郎 (投手)
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大橋 一郎(おおはし いちろう、1925年1月1日 - 没年不明)は、京都府出身の元プロ野球選手。
経歴
京都商業学校(現・京都先端科学大学付属中学校・高等学校)在学中は、甲子園に3度出場(春1回〈1940年〉、夏2回〈1939年,1940年〉)。このうち1940年春の大会では、二塁手のレギュラーとしてチームの準優勝に貢献した[2]。京都商業時代のチームメイトに神田武夫(投手。のち南海)、徳網茂(捕手。のち大阪)がいた[2]。
戦局の悪化に伴って高校野球大会が中止した事により、1942年に京都商業を中退して朝日軍に入団した。10月4日の大洋戦(甲子園球場)で初登板を果たすも、1アウトしか取れずに3四球を与えて降板。翌1943年は出場機会が無かったが、1944年には主力が戦争に駆り出されてチームの人数が少なくなった事により、代打要員として活躍した。終戦後の1946年にグレートリングに移籍するも、殆ど出番はなくこの年限りで現役引退した。投手登録だったが、二塁手や代打として出場の方が多かった。またグレートリング時代は背番号19を着用していたが、これは志半ばで肺結核により死去した神田の遺志を継いだ物である。
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詳細情報
年度別投手成績
年度別打撃成績
背番号
- 25 (1942年 - 1943年)
- 19 (1946年)
- 1944年は全球団で背番号廃止された。
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脚注
関連項目
外部リンク
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