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大統領の執事の涙

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大統領の執事の涙』(だいとうりょうのしつじのなみだ、Lee Daniels' The Butler[5][6])は、リー・ダニエルズ監督、ダニー・ストロング英語版脚本、アンサンブル・キャストによる2013年アメリカ合衆国歴史ドラマ映画である[7]ユージン・アレン英語版の実生活に触発を受けた内容となっており、フォレスト・ウィテカー演じるアフリカ系アメリカ人ホワイトハウスバトラー(執事)のスィーシル・ゲインズの視点で彼の34年の任期中に起こった20世紀の事件が描かれる[8][9]。2011年に亡くなったローラ・ジスキンが最後にプロデュースした作品である[10][11]

概要 大統領の執事の涙, 監督 ...

アメリカ合衆国ではワインスタイン・カンパニー配給で2013年8月16日に封切られて、高評価を得て[12][13]、製作費3000万ドルに対し、世界興行収入は1億3000万ドルを超えた[2]

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あらすじ

要約
視点

2009年、年老いたスィーシル・ゲインズは、新たに就任したオバマ大統領との面談をホワイトハウスで待つ間、自身の人生について語る。スィーシルはジョージア州メーコンの綿花農園の小作人の家庭に生まれ育った。1926年、7歳のときに農園主の息子が母親のハッティをレイプした。彼の父アールは農園主に抗議しようとして殺されてしまう。スィーシルは屋敷の管理人に引き取られ、家内使用人として訓練される。

1937年、18歳のスィーシルは農園を離れる。どうしようもなくお腹が空いた彼は、ホテルのペストリー店に侵入してしまう。そんな彼を哀れんだ初老の使用人頭メイナードが仕事を与える。スィーシルはメイナードから高度なサービス提供方法と対人スキルを学ぶ。教えられたことは「客の目を見て望みを知れ」「相手の心を読め」「ボスが思わず微笑むように」「白人用の顔と自分の顔を持て」ということだった。また、「ハウスニガー」という言葉は使うなと言われる。後にメイナードはスィーシルをワシントンD.C.のホテルに推薦する。そこで働いている間に、スィーシルはグロリアと出会い結婚し、2人にはルイスとチャーリーという2人の息子が生まれる。

1957年、スィーシルはドワイト・D・アイゼンハワー政権下でホワイトハウスに採用される。ワシントンD.C.の高級ホテルで実直に勤務していると、ホワイトハウス付きの執事にならないかと誘いを受け、面接を受けたのである。ホテルの客だったホワイトハウスの事務主任ウォーナーが認めたためである。ホワイトハウスの給仕長フレディ・ファローズがスィーシルをカーター・ウィルソンとジェームズ・ホロウェイを紹介する。新人の採用は自分で決めたかったと言う給仕長にも何とか気に入られ、「ハウスニガーにようこそ」、「ここでは政治の話題は御法度だ」などと言われる。スィーシルは、アイゼンハワーが学校の人種差別撤廃を執行するために軍隊を使うことを躊躇ったこと、そしてアーカンソー州のリトルロック中央高校を人種的に統合することで法を守るという決意を目の当たりにする。

エメット・ティル事件に興味を持った長男のルイスはテネシー州ナッシュビルのフィスク大学に入学するが、スィーシルは南部の情勢が不安定過ぎると心配する。ルイスは南部キリスト教指導者会議(SCLC)の活動家ジェームズ・ローソンが主導する学生運動に参加し、人種によって席が分けられている食堂での非暴力的な座り込み運動に参加し、逮捕される。グロリアはスィーシルが自分よりも自分の仕事を優先していると感じ、アルコール依存症に陥る。

1960年の大統領選挙中、台所にいる執事たちのところに「金持ちの坊ちゃんに負けたくない、応援してくれ」と現れ、自分の選挙運動用ピンバッジを配ったのは、共和党の大統領候補者となった副大統領リチャード・ニクソンだった。

大統領は任期ギリギリまでホワイトハウスに住んでいて、引越後2時間で新大統領を迎える準備をしなければならない。1961年、小さい娘のキャロラインたちを連れて若いケネディ大統領がやって来る。スィーシルの妻の関心は専らジャッキー夫人のの数だった。スペインの独裁フランコ政権を支持する国では演奏しないパブロ・カザルスがホワイトハウスでチェロの演奏をする。

ルイスたちはアラバマ州バーミンガハムへ向かう「フリーダム・ライド」中にクー・クラックス・クランのメンバーに襲撃され、何とか逃れるが、ミシシッピ州で収監されてしまう。ルイスは1963年のバーミンガム子供十字軍に参加する。そこでは犬と放水銃が行進を止めるために使用され、この行動がケネディに1964年の公民権法を提案する全米へ向けた演説を行うきっかけとなる。

ケネディ暗殺の速報が流れ、ジャッキーがホワイトハウスに戻ってくるが、血まみれの服を着替えるのを拒む。ジャッキー・ケネディ夫人は善意の印として、ケネディ大統領のネクタイをスィーシルに贈る。

ケネディの後任のリンドン・B・ジョンソンが「1964年の公民権法」を成立させ、演説の中で“ウィ・シャル・オーバーカム”と繰り返す。ルイスは1965年のセルマ投票権運動に参加し、ジョンソン大統領はこの運動に触発され、画期的な1965年の投票権法を可決するよう議会に要求する。ジョンソンはまた、スィーシルにネクタイピンを贈る。

ベトナム戦争が泥沼化し、過激なマルコム・Xは「ハウスニグロ」を批判する。一方、キング牧師は、執事は紋切型の黒人像を変えた、彼らは戦士だと評価するが、メンフィスのモーテルで暗殺されてしまう。ブラック・パンサーになったルイスが恋人を連れて帰宅するが、映画『夜の大捜査線』の主演俳優シドニー・ポワチエに対する評価が異なり、また、ゲップをする恋人の態度の悪さから、家を出て行けと言う。ルイスは再び逮捕される。スィーシルはリチャード・ニクソン大統領がブラックパンサー弾圧を計画していることを知る。

チャーリーはルイスにベトナム戦争に行く積りだと打ち明ける。彼は戦死し、アーリントン国立墓地に埋葬される。ブラックパンサー党が暴力に訴えるようになると、ルイスは党を離れて大学に戻り、政治学の修士号を取得し、その後、連邦下院議員に立候補し、落選する。それでもスィーシルのルイスに対する憤りの気持ちは無くならない。

1974年夏、ニクソンはウォーターゲート事件で追いつめられるが、夜中に泥酔し「絶対辞めない」を繰り返す(しかし、8月9日に辞任)。

スィーシルは、ホワイトハウスの黒人スタッフに対する賃金と昇進の不平等について、事務主任に対して繰り返し訴えてきていたところ、ロナルド・レーガン大統領の口添えもあり、スィーシルの要求は受け入れられる。彼の評判は高まり、彼と妻はレーガン大統領から公式晩餐会のゲストとして招待されるまでになる。スィーシルはホワイトハウス内の階級による区分に不快感を覚えるようになり、レーガン大統領がアパルトヘイトを施行している南アフリカに対する経済制裁への支持を拒否したことを目の当たりにし、辞任する。

グロリアはスィーシルにルイスとの関係を修復するよう頼む。息子の行動が英雄的であることに気づき、彼は南アフリカのアパルトヘイトに対する抗議活動に参加する。彼らは逮捕され、一緒に投獄される。

2008年、バラク・オバマが全米初の黒人大統領に選出される直前、グロリアは亡くなる。その2か月と2週間と1日後、スィーシルはケネディとジョンソンから贈られた物を身に付けて、新任の大統領に会う準備をする。ホワイトハウス首席案内係のスティーブン・W・ローションが彼に近づき、大統領の準備が整ったことから大統領執務室へ案内すると告げる。スィーシルは、行き方は分かっていると言い、先に廊下を歩いて行く。

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キャスト

要約
視点
ゲインズの私生活
ホワイトハウスでの同僚
ホワイトハウスの歴史上の人物
公民権運動の歴史上の人物

他に、大統領のジェラルド・R・フォードジミー・カーターバラク・オバマと公民権運動のリーダーのジェシー・ジャクソンアーカイヴ映像を使って描かれる[21][22]

メリッサ・レオとオーランド・エリック・ストリートはそれぞれマミー・アイゼンハワー大統領夫人とバラク・オバマ大統領役にキャスティングされていたが、完成した映画には登場しなかった[7][23][24][25]

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日本語吹替

さらに見る 役名, 俳優 ...

製作

企画

ダニー・ストロング英語版の脚本は『ワシントン・ポスト』の記事「A Butler Well Served by This Election」の影響を受けている[13][31][32]。プロジェクトは2011年初頭、プロデューサーのローラ・ジスキンとパム・ウィリアムズが資金提供を求めてシーラ・ジョンソン英語版に近づいた際に始まった。ダニー・ストロングの脚本を読んだ後、ジョンソンは他のアフリカ系アメリカ人の投資家を得る前に270万ドルを提供した。しかしながらジスキンは2011年6月に癌で亡くなった。監督のダニエルズと製作パートナーのヒラリー・ショーはさらにプロデューサーを探し、2人は『ペーパーボーイ 真夏の引力』でも働いたカシアン・エルウィズ英語版と組み、彼はさらに資金調達を進めた。2012年春に海外プリセールスにより600万ドルの保証を得た。最終的に必要としていた製作費3000万ドルに達し、アール・W・スタッフォード、ハリー・I・マーティン・Jr、ブレット・ジョンソン、マイケル・フィンリー、バディ・パトリックなどを含む41人がプロデューサーやエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされた[3][33]

コロンビア ピクチャーズが本作をターンアラウンド英語版に置いた後、ワインスタイン・カンパニーは配給権を獲得した[34][35]

タイトルは元々は単に『The Butler』であったが、1916年にリュバン・カンパニーによって公開され、現在はフィルムが失われている同名の短編映画の権利を保有するワーナー・ブラザースアメリカ映画協会(MPAA)にクレームをつけたために変更を余儀なくされた[10][36]。この訴えによりMPAAはワインスタインに対し、タイトルの前に「Daniels'」を追加し、それを「『The Butler』の75%のサイズ」にすることで許可を与えた[37]。2013年7月23日、配給側は『Lee Daniels' The Butler』に改題したポスターを発表した[38]

撮影

主要撮影は2012年7月下旬にニューオーリンズに始まった。撮影終了は当初は2012年9月上旬を予定していたが、ハリケーン・アイザック英語版の影響で延期された[39]

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評価

批評家や著名人の反応

Rotten Tomatoesでは136件のレビューで支持率は74%となった[40]。またMetacriticでは43件のレビューで加重平均値は66/100となった[41]

バラク・オバマ大統領は「私はこのホワイトハウスで働いていた執事だけではなく、有能で熟練した人々の全ての世代のことも考えながら涙ぐんだ。しかしジム・クロウ法差別のために、彼らの行ける道は限られていた」と述べた[42]

興行収入

北米では公開初週末で2460万ドルを売り上げて初登場1位となった[43][44]。北米週末興行収入は3週連続で1位となった[45][46]

日本では公開初週末に4190万5500円を売り上げ、3万5148人を動員し初登場9位となった。また、男女ともに幅広い年齢層の観客を獲得した[47]。公開後、口コミにより2週目の土日動員も先週比91パーセントを維持し、平日の稼働率も高く累計動員12万9,970人、累計興収1億4,818万2,300円でランキング10位となっている[48]

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参考文献

外部リンク

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