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奥柿幸雄

日本のプロ野球選手 (1948-) ウィキペディアから

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奥柿 幸雄(おくがき さちお、1948年6月6日 - )は、静岡県[1]出身の元プロ野球選手

概要 基本情報, 国籍 ...

来歴・人物

静岡商では1966年、3年生の時に一塁手、控え投手として夏の甲子園県予選決勝に進出。掛川西に5点をリードされるが、リリーフとして登板し終盤で逆転勝ち。甲子園では1回戦で金沢商に快勝[2]。この試合では左打者ながら左翼へ大会第2号本塁打を放ち、その長打力を注目される。またリリーフとして甲子園初登板を果たした。しかし2回戦で、この大会に準優勝した松山商西本明和投手に抑えられ1-5で敗退[2]

1966年第1次ドラフトサンケイアトムズに1位で入団[1]。高校時代から「2世」と呼ばれており、背番号は読売ジャイアンツの王と同じ1番をもらった[1]。サンケイでは一塁手の豊田泰光小淵泰輔に衰えが見られ、その後継として大きく期待される。1年目から一軍入り、5月からクリーンナップとして4試合に起用された。翌1968年には26試合に先発出場、シーズン後半には五番打者に起用される。同年9月は2試合で四番に入るなど期待の大きさがうかがえるが、打撃面では伸び悩みが続く。1969年には一塁手にロバーツや途中入団のチャンスが入り、出場機会を増やすため外野手も兼ねる。

『プロ野球人名事典 2003』では、1970年のシーズン中に周囲の重圧に耐えきれず突然失踪し[1]、そのままチームを解雇されてしまった[1]としている一方、『週刊ベースボール』1970年12月14日号(ベースボール・マガジン社)では、同年シーズンオフの11月3日に行われた秋季練習を欠席し、そのまま2・3日ほど姿を現さず、失踪事件として家族が警察に届け出をしかけたところ、姿を現して自ら引退を決めた経緯や、その後の本人の「早くプロの汚れ切った気持ちを整理して再起したい。地道なサラリーマンが向いているのかもしれないですね」という談話の記述がある[3]

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • サンケイ(サンケイアトムズ)は、1969年にアトムズに、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更

背番号

  • 1(1967年 - 1970年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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