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小淵泰輔
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小淵 泰輔(こぶち たいすけ、1935年1月9日 - 2011年4月1日[1])は、福岡県大牟田市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。
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経歴
三池工業高校を卒業後の1954年に東洋高圧大牟田へ入社。1955年の都市対抗では中心打者として準々決勝に進み、全鐘紡に惜敗したものの首位打者賞を獲得[2]。1956年の大会では濃人渉監督率いる日鉄二瀬に補強され3番打者として活躍し、打撃賞を得る。この時のチームメイトには古葉毅・吉田勝豊・江藤慎一がいた。同年の第2回世界野球大会に社会人野球日本代表として出場[2]。
1957年に西鉄ライオンズへ入団し、同年から一軍に定着。仰木彬の控えではあったが、主に二塁手として49試合に先発出場。同年の巨人との日本シリーズでは、11月1日の最終第5戦(後楽園)で大友工から初打席初安打を放つ。
1958年も滝内弥瑞生と共に内野の準レギュラーとして起用され、リーグ3連覇に貢献。同年の巨人との日本シリーズでは、10月11日の第1戦(後楽園)に二塁手として先発出場するが、無安打が続く。同17日の第5戦(平和台)では7回から仰木に代わり守備につくが、巨人1点リードで迎えた9回裏、この回の先頭打者となった小淵の当たりは三塁線を際どく抜けるシリーズ初安打、小淵は二塁に達した。この打球を三塁手の長嶋茂雄はファウルだと判断して捕らなかったが、塁審の二出川延明がこれをフェアと判定。水原茂監督と長嶋は猛抗議したが判定は覆らなかった。この二塁打と、このシリーズでは絶不調だった関口清治が意地で放ったセンター前へのタイムリーヒットでチームは同点に追いつき、10回裏の稲尾和久のサヨナラホームランで勝利、奇跡の逆転日本一につながる。
1959年は開幕から二塁手として起用され、仰木との併用ながら81試合に先発出場。1960年は三塁手に回って城戸則文とレギュラーを争い、8月6日の東映戦(平和台)でサイクルヒットを達成。
1961年に大矢根博臣とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍するが、あまり活躍の場はなかった。
1964年には国鉄スワローズへ移籍。この年は好調を維持し星山晋徳に代わり一塁手に定着。右翼手としても起用されシーズン後半には豊田泰光、徳武定之とともにクリーンアップを任される。初めて規定打席に到達しリーグ5位の打率.306を記録、15本塁打、48打点と、いずれもキャリアハイの成績を残した[3]。1965年も中軸として活躍したが、両リーグ最多の111三振を記録した。1969年に現役を引退。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)に、1969年にアトムズに球団名を変更
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1969年5月19日 ※史上138人目
- その他の記録
背番号
- 1 (1957年 - 1960年)
- 5 (1961年 - 1962年)
- 41 (1963年)
- 32 (1964年 - 1969年)
- 53 (1970年)
- 66 (1971年 - 1980年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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