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宝井馬琴
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初代 東流斎馬琴
享保元年(1801年)- 安政4年8月19日(1857年10月6日)[1]。本名:吉田 常吉[1]。
江戸神田に生まれる[1]。神田の武具職の息子、あるいは板木師の息子とも言われる[1]。二代目森川馬谷に入門する[1]。のちに初代東流斎馬琴を名乗る[1]。この名は曲亭馬琴に因んだものである[1][2]。従来、棒読みだった講談の読み口に、登場人物や性別による演じ分けを導入して人気を博した[1]。馬琴は学識があり、文才にも優れたため、門弟は63人を数えた[1]。墓所は東京都台東区鳥越二丁目信入院[1]。戒名は「釈教道居士」「釈教道」「教道信士」と言われ、定かではない[1]。
二代目 東流斎馬琴
生没年や本名不詳である[3]。初代東流斎馬琴の門弟で、宝井琴調を名乗った[3]。のちに初代東流斎馬琴の長女と結婚し、初代が没すると、二代目東流斎馬琴を名乗った[3]。通称は「琴調馬琴」[3]。後の二代目松林伯圓、初代宝井琴凌らを育てた[3]。
三代目 東流斎馬琴
本名・経歴・生没年などは一切不明である[4]。放牧舎桃林の弟子である桃花を三代目東流斎馬琴とする説もあるが、裏付ける資料がない[4]。
四代目
1853年2月4日(嘉永5年12月26日)[5] - 1928年(昭和3年)12月27日[5]。本名は、小金井 三次郎[5]。初代宝井琴凌の子[5]。
慶応2年(1866年)小琴凌を名乗る[5]。明治2年(1869年)父の初代宝井琴凌が死去すると、明治3年12月に初代西尾麟慶の門下に入り、慶豊と名乗る[5]。小麟慶、調窓を経て、1875年二代目宝井琴凌を襲名する[5]。1898年1月、四代目宝井馬琴を襲名する[5]。
レパートリーの豊富さで知られ、修羅場読みでは高い評価を得た[5]。夏目漱石の『硝子戸の中』の中でも言及されている[5]。また永井荷風も「いつも元気よく高座にてしゃべる事如何にも愉快さうに見え聞く人自ら愉快になる」と絶賛している。没年の1928年まで、都新聞に239回にわたり「講談界昔話」のコラムを掲載した[5]。
幼少より武芸を好み、野見錠次郎から直心影流剣術の免許を受けている[5]。また福田源太郎から楊心流柔術、青柳正三郎から小笠原流弓術を学んでいる[5]。
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五代目
要約
視点
五代目 宝井 馬琴(1903年11月9日[6] - 1985年10月26日[6])は、日本の講談師。本名:大岩 喜三郎[6]。
経歴
1903年11月、愛知県内海町に生まれる[6]。1925年、四代目宝井馬琴に入門し、宝井琴桜を名乗る[6]。1928年、宝井琴鶴に改名[6]。1930年に異例の早さで真打昇進[6]。1934年1月、五代目宝井馬琴を襲名[6]。1972年、紫綬褒章受章[6]、文化庁芸術祭賞優秀賞を受賞[6]。1978年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。
受賞歴
人物
若いときは二代目大島伯鶴の影響を受けた。
1950年、53年、56年(自民党)と参院選の全国区に立候補し落選[7][8][9][注 1]。
1971年には天皇の古希を祝い、皇居内で御前口演を行った[6]。天皇は馬に関心があることより「寛永三馬術 曲垣平九郎 愛宕山出世の春駒」を演じた[6][10]。
1968年、講談協会を設立し会長に就任[6]、1970年に脱退するまで務める。その後、天の夕づるのポルノ講談問題により講談協会が解散すると、フリーで活動を行った[6]。1980年、再合流した講談協会の会長となる[6]。三遊亭圓生、林家正蔵の没後は、明治生まれの重鎮として現役で活躍した[11]。1984年10月の新宿末広亭での「寛永三馬術」が最後の高座となった[6]。
独特の口調から「糞詰まり」という悪口があった。
弟子
移籍
系図
五代目宝井馬琴† | 六代目宝井馬琴† | 四代目宝井琴柳 | |||||||||||||||||||||||||||
宝井琴星 | 五代目宝井琴鶴 | ||||||||||||||||||||||||||||
宝井琴波 | |||||||||||||||||||||||||||||
宝井小琴 | |||||||||||||||||||||||||||||
宝井琴嶺 | |||||||||||||||||||||||||||||
五代目宝井琴梅 | 宝井梅福 | ||||||||||||||||||||||||||||
宝井一凜 | |||||||||||||||||||||||||||||
二代目田辺鶴遊 | |||||||||||||||||||||||||||||
四代目宝井琴凌 | |||||||||||||||||||||||||||||
二代目宝井琴桜 | |||||||||||||||||||||||||||||
四代目宝井琴調 | |||||||||||||||||||||||||||||
家族
逸話
漫画家の長谷川町子が倉庫として使っていた文京区千駄木団子坂の土地を「方位が良い」という理由で頼み込んで譲り受け、総檜づくりの「馬琴ガム宮殿」(バッキンガム宮殿のもじり)とも呼ばれた豪邸を建てた[12]。その後、馬琴が御前口演をするほど活躍したことについて、長谷川は著書『サザエさんうちあけ話』で「易も当たるんですね」と書き残している[13]。
没後の1987年、遺族から国立演芸場資料室に台本を含む2000冊以上の書籍類、硯・煙管などの愛用品、写真・レコードなど、段ボール箱78箱分の膨大な資料が寄贈されている[14]。
著書
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6代目
要約
視点
六代目 宝井 馬琴(たからい ばきん、1935年(昭和10年)9月13日 - 2015年(平成27年)9月25日[15])は、日本の講談師。静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身。本名∶山梨 務。
経歴
静岡県立清水東高校卒業後[16]、1959年、明治大学文学部英米文学科を卒業。学生時代にはラジオ東京の「しろうと寄席」に出演経験がある。
大学卒業と同時に五代目宝井馬琴に入門。三代目琴調を名乗る。1966年、真打に昇進し、四代目琴鶴に改名。
1976年と1984年には、文化庁芸術祭賞優秀賞を受賞。1987年、六代目宝井馬琴を襲名。
1980年、放送演芸大賞講談部門賞受賞。1988年、浅草芸能大賞奨励賞受賞。1991年、文化庁芸術祭賞受賞。1998年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年、紫綬褒章受章。2008年、旭日小綬章受章。また、2006年から10年まで講談協会会長などの要職を歴任した。
人物
「埼玉英傑伝」「いま甦る名将のはなし」などの著書がある。
ゲーム「ジャンピングフラッシュ!」のナレーションを担当した。
1982年から1986年までNHK-FMで放送された、ロックミュージシャンの半生を講談調で語る異色番組「ロック講談」(作・構成 大伴良則)の講談を担当した。
芸歴
著書
- 『講釈師見てきたような…』海南書房, 1987
- 『講釈師足で綴る戦国ドラマの旅』象山社, 1989
- 『道は講釈に通ず 馬琴の芸談余話』柏樹社, 1991
- 『「社長」革新50の心得 会社活性化の基本戦略』梶原豊共著. 評言社, 1995
- 『埼玉英傑伝』さきたま出版会, 1998
- 『東海道道中記』(文)宝井馬琴、(木版画)浦田周杜、静岡新聞社、1998
弟子
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脚注
外部リンク
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