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富尾似船
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富尾 似船(とみお じせん、寛永6年(1629年) - 宝永2年7月16日(1705年9月3日))は江戸時代前期の俳人。荻野安静に師事して貞門派に属したが、延宝期に談林派に転じた。
経歴
寛永6年(1629年)生まれ[1]。早くは明暦2年(1656年)2月鶏冠井令徳編『崑山土塵集』に発句が入集する[2]。明暦3年(1657年)頃荻野安静に入門し、貞門派に属した[3]。寛文5年(1665年)剃髪し[3]、同年歳旦から似船と号した[4]。寛文9年(1669年)安静が死去し、延宝2年(1674年)遺集『如意宝珠』を刊行した[5]。
延宝3年(1675年)江戸から談林派誹諧が伝わると、同年菅野谷高政編『誹諧絵合』に百韻を入集させて関心を示し、延宝5年(1677年)『誹諧猿蓑』に至って完全に談林派に移行し、貞門派に留まった中島随流等による激しい批判に晒された[6]。延宝7年(1679年)車屋町通[7]、元禄4年(1692年)五条通東洞院東入ル朝妻町[8]、次いで堀川通七条南(醒ヶ井通七条下ル[9])鎌屋町に転居した[10]。月に何度も法楽の会を催し、門弟以外からも歳旦発句を集めて板行料を徴収した[11]。
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編著
- 寛文5年(1665年)3月刊『芦花集』[13]
- 延宝4年(1676年)3月刊『独吟大上戸』[14] - 散佚[3]。
- 延宝4年(1676年)3月記『石山寺入相鐘』[15]
- 延宝5年(1677年)9月序『誹諧隠蓑』[17]
- 延宝7年(1679年)9月刊『火吹竹』 - 散佚[3]。
- 延宝9年(1681年)3月刊『安楽音』[21]
- 元禄2年(1689年)4月刊『苗代水』[24][25]
- 元禄4年(1691年)5月刊『勢多長橋』[26] - 『未刊雑俳資料』6期収録。
- 元禄7年(1694年)5月刊『堀河之水』[27][28]
- 元禄10年(1697年)11月刊『千代正月集』[29] - 巻5のみ現存[3]。
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発句
和漢・仏教の故事に取材した衒学的な句が多い[3]。
- 『鄙諺集』「何を風の口ばしりてや夕時雨」
- 風を擬人化し、夕時雨の原因を風が口走ったせいだとする[4]。
- 『崑山土塵集』「出て見よきもんつふす程比叡の雪」
- 『隠蓑』「むつごとや五十六億七夕まで」
- 『安楽音』「粤(コヽニ)薬子嫦娥ツタヘテ五位六位」
- 『安楽音』「屏風峙テリ是レ雛の世界桃ノ林」
門人
同時代の評価
延宝3年(1675年)菅野谷高政は『誹諧絵合』序文で似船を「法印都の図を模するが如し。さびしからずして双なし。」と評価する[14]。
延宝7年(1679年)岡西惟中『近来俳諧風体抄』は談林派による漢語・釈教語の多用を批判し、似船の句「晴明やくろゝ砕て祈たり」「六賊のをしこみ不動なかする」「宋玉が一流うたふほとゝぎす」「評判の屈原からくりの月」「秋津洲の外にながれて灸の膿」「火々出見ノ尊銭湯にいる」を取り上げ、「たゞごとのみとりあつかふ俳諧は、一句力なく、たよ/\として、みるにたらず。」と酷評する[32]。
中島随流は同年『誹諧破邪顕正』で、貞門時代の似船は「器用の口才」だったが、「天魔の入かはり」により「異風異形の島もの」になってしまったとし、「同腹中の狂者」と批判する[33]。延宝8年(1680年)『誹諧猿黐』では似船の漢詩文調を「唐人かと見れば平仄韻字の鎧もなし。又日本侍かとおもへばかぴたんのひたゝれを着たり。」と揶揄している[11]。元禄5年(1692年)『貞徳永代記』でも堀江林鴻『京羽二重』に掲載された似船の句を批判し、同年弄松閣只丸『あしぞろへ』、元禄6年(1693年)林鴻『あらむつかし』が似船擁護の論陣を張った[34]。
延宝7年(1679年)松江重頼『誹諧熊坂』は、「扨又都の其内におほき雀のとび体は、三条の如泉、四条の似船、ちう/\さへづる五句付の銭」として、五句付興行により点料で儲けていることを批判する[35]。
元禄15年(1702年)室賀轍士編『花見車』は似船について、仏学・書に通じ、毎年歳旦の興行で名を知られるが、会合に顔を見せずに執筆に専念しているとして、「老女郎の巧者」に喩える[36]。
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親族
脚注
参考文献
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