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安倍晴明

日本の平安時代の陰陽師 ウィキペディアから

安倍晴明
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安倍 晴明(あべ の せいめい / はるあき / はるあきら 、921年2月21日延喜21年1月11日[注釈 1][2])- 1005年10月31日寛弘2年9月26日))は平安時代陰陽師。「晴明」を「せいめい」と音読みする場合が多いが、読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏土御門家の祖。官位は従四位下

概要 凡例安倍 晴明, 生誕 ...

史実上の人物像

要約
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出自

晴明の系譜は不詳だが、中級貴族の大膳大夫安倍益材(あべ の ますき)[1][3]の子と伝わっている。

各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣・阿倍御主人(みうし)の子孫とある[1][4]。一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものも散見していることから、安倍朝臣姓の家系である阿倍御主人の子孫ではなく、安倍宿禰姓の家系である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔説もある。[要出典]

経歴

延喜21年(921年)に生まれたとされる[注釈 2]。生地については生誕地を参照。

幼少の頃については確かな記録がない。陰陽道については賀茂氏の門下生であったという[5]

天徳4年(960年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった。その後の経歴は記録によって複数の説があるが、高田義人の整理によれば天徳4年に発生した内裏火災で焼損した霊剣鋳造の功労によって翌応和元年(961年)6月以降に陰陽師(官職)に任じられ、天禄元年(970年)に陰陽少属に昇進、[要出典] 天禄2年(971年)には51歳で天文博士の兼任が認められた[6]

貞元2年(977年)、賀茂保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す[7]。その後、『占事略决』を撰した。

花山天皇の信頼を受けるようになり、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から覗える。

そのほか、『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明がみそぎを奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙された[8]

長保2年(1000年)10月、一条天皇の新造内裏遷御において、御輿が南階の前に到着する前に晴明は反閇へんばいを奉仕した。応和の前例では、陰陽寮が供奉して散供していたが、晴明が陰陽道の傑出者であるため奉仕した[9]

『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものとして被物かずけものを与えるよう命じたことなどが記されている[7]

陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫穀倉院別当、などの官職を歴任し、位階従四位下に昇った。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することはなかったが、位階はその頭よりも上位にあった[7]。さらに晴明の2人の息子(安倍吉昌安倍吉平)が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。のちに賀茂・安倍(土御門)の両家は二大陰陽道宗家となる[5]

晴明の邸宅は『大鏡』によると土御門町口付近、『今昔物語集』によると土御門西洞院北東(現在の京都市上京区土御門町・菊屋町)にあったとされる。

末裔

系譜上安倍晴明の後裔とされる家柄としては、堂上家では、安倍氏嫡流土御門家と、江戸時代にそこから分家した庶流倉橋家があり、明治以降は共に子爵に列せられ、子孫が現存する[10][11][信頼性要検証]。 ただし安倍晴明の男系血脈は、宇多源氏綾小路家の子で倉橋家の養子となった倉橋有儀1738年 - 1784年)と、その息子で土御門家の養子となった土御門泰栄1758年 - 1806年)の代で断絶しており、現在の土御門家・倉橋家当主はいずれも更に養子相続を繰り返した結果、戦国時代の安倍氏当主土御門有脩から数えて共に4回の女系を経ることで存続している[注釈 3]。 一方、土御門有脩の娘が勧修寺晴豊の妻、土御門泰福の娘が倉橋泰章土御門久脩から5代目の男系子孫)の妻、さらにその泰章の娘が萩原員領の妻になり、みな子を残しているため、勧修寺家萩原家(蘒原家)をはじめとする幾つかの堂上公家華族の子孫、および現皇室に、女系を経て安倍晴明の血脈が受け継がれている[12][13][信頼性要検証]

また、地下家幸徳井家も、系譜上は賀茂氏であるが、家祖友幸が安倍氏出身であり、安土桃山時代の当主・友豊まで晴明の男系血脈が続いた。

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創作作品での人物像

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疫病神退治をする安倍晴明(泣不動縁起より)

今日では平安時代の代表的な陰陽師のように扱われている晴明であるが、その名が広く知られることになったのは晴明を説話の登場人物として扱った『大鏡』や『今昔物語集』が出た12世紀前半、すなわち晴明の死から100年ほど後の時代のことと考えられている。

しかし、これらの作品の同世代もしくは少し後の作品である『江談抄』や『中外抄』には、他の陰陽師の名は出ても晴明の名前は登場しない。11世紀後半から12世紀後半にかけて陰陽道といえば賀茂氏と認識される時代が長く続き、一方で安倍氏の者の中にも陰陽道にその才を示すものがいたものの、早世や内紛なども多く不振の時代であった。そのなかで、晴明流の安倍氏が自らの立場の安定化のために、祖先である晴明の顕彰活動を行ったと推測される。

その甲斐があったのか、13世紀(鎌倉時代)に入ると『古事談』『宇治拾遺物語』『十訓抄』などに晴明の活躍が記されるようになった[14]

また、晴明が阿倍仲麻呂の子孫とする説話[15]がある。

平安文学

大鏡』- 帝紀「花山天皇」
花山天皇が帝位を捨てて出家しようと寺に向かっている時、晴明の家の前をちょうど通ったところ、「天皇が退位されるとみられる天変があった。式神一人内裏に参上して奏上せよ」という晴明の声が聞こえた。
今昔物語集
「代師入太山府君祭都状語」
ある僧が重病を患い、弟子たちは安倍晴明に泰山府君祭を行って僧の病気を治してほしいと頼んだ。晴明は、弟子の誰かが僧の身代わりとなって寿命を差し出せば、都状に名前を記して泰山府君に頼んでみると答えた。弟子の一人が身代わりを申し出たので晴明が泰山府君祭を行うと、師匠の病気はたちまち回復した。弟子は死を覚悟したが、夜が明けてもまだ生きていた。弟子が不思議に思っているところに晴明がやってきて、「泰山府君は弟子を哀れんだので師匠も弟子も共に助かった」と伝えた。
なお『曽我物語』『安倍晴明物語』に類似の説話がある。
「安部晴明随忠行習道語」
  1. 晴明が幼少の頃、賀茂忠行の夜行に供をしている時、夜道に鬼の姿を見て忠行に知らせた。忠行は晴明が優れた才能を持つことを悟り、陰陽道のすべてを教え込んだ。
  2. 陰陽道の大家となった晴明は、ある時播磨国から来た陰陽師(後述)に術比べを挑まれたが、いともたやすく懲らしめた。
  3. 仁和寺寛朝僧正のところで、同席した公卿達に陰陽道の技でカエルを殺してみせるようにせがまれ、術を用いて手を触れずにカエルを真平らに潰した。
  4. 晴明の家では式神を家事に使っており、人もいないのに勝手に門が開閉していた。
「播磨国陰陽師智徳法師語」
播磨国の陰陽師、智徳法師が方術で海賊を捕らえた物語だが、末尾に「智徳はこれほど優れた陰陽師でありながら晴明にはかなわなかった」と記されているので、前の物語に登場した播磨の陰陽師は彼のことだとわかる。

中世文学

無名抄
かつて晴明が在原業平の家に祈祷して火の力を封じたので、業平の家は長らく火災に遭わなかった。しかし、末世には晴明の力も及ばなかったのか、とうとう焼けてしまった。
古事談』- 晴明、花山天皇の前生を知ること
花山天皇は頭痛を患い、雨の日は特に痛んだ。晴明は天皇の前世が優れた行者であることを見抜き、前世の髑髏が岩の隙間に挟まっているので雨の日にひどく痛むのだと説明した。晴明は髑髏のある場所を指し示し、使者が髑髏を取り出すと天皇の頭痛は治まった。
続古事談
安倍晴明が大舎人だった頃、勢多橋を通りかかったところで、慈光から貴方は陰陽道の達者になる者だと告げられる。そこで、晴明は陰陽師具曠の許へ行き弟子入りを志願するが断られる。次に賀茂保憲の許へ行ったところ、保憲は晴明の才能を見抜いて弟子に迎え入れた。
晴明はもっぱら術法に長けた者であり、学問については特に優れていたわけではなかったと言われている。
ある時、晴明は保憲の息子賀茂光栄と議論をしていて、晴明が「生前、保憲は光栄を自分より上に立たせることはなかった」と言うと、光栄は「愛弟子と実の息子とでは違う」と反論した。晴明が「保憲は陰陽道に関する数多の書物を自分に伝授してくれたが、光栄には伝えなかった。これがその証である」と言ったが、光栄は「その書物は私の許にある。また、父保憲は自分に暦道を伝授してくれた」と言い返した。
宇治拾遺物語
「晴明蔵人少将封ずる事」
晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやった。
「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」
藤原道長が可愛がっていた犬が、あるとき道長が法成寺に入るのを止めようとした。道長が晴明に占わせると、晴明は呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、呪いをかけた陰陽師道摩法師を式神を使って見つけ出して捕らえた。
十訓抄』にも同様の記述がある。
平家物語』-「剣巻」
貴船神社に祈願し鬼となった橋姫の腕を渡辺綱が切り落とし、播磨守であった晴明が封印した。
なお「剣巻」を元に制作されたの演目『鉄輪』にも晴明はワキとして登場する。
源平盛衰記
「巻三 法皇熊野山那智山御参詣の事」
花山法皇が山に籠もっていると天狗が妨害してきたので、法皇は陰陽博士・安倍晴明を召した。晴明は狩籠の岩屋に多くの魔類を祀った。
「巻十 中宮御産の事」
治承2年(1178年)11月12日から、平徳子は産気づいたが出産しなかった。母である平時子一条戻橋で橋占をしたところ、12人の童が同じ歌を歌って橋を渡っていった。昔、安倍晴明は天文道を究め十二神将という式神を使役していたが、晴明の妻は式神の顔を怖がった。そこで、晴明は呪いで式神を橋の下に隠し置き、必要な時だけ喚び出していたというので、12人の童というのは十二神将の化現だろうと推測された。
古今著聞集』-「巻七 陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふこと」
晴明が早瓜を占ったところ、そのうちの一つの瓜から毒気を感じたので取り出してみた。僧正・観修が念仏を唱えていると瓜が揺れ始めた。藤原道長は医師・丹波忠明に毒気を治すように命じ、忠明は瓜に針を刺した。すると、瓜の動きが止まったので、源義家が刀を抜いて瓜を割った。瓜の中では小さな蛇が死んでいた。

『撰集抄』「巻八 一〇四 空也上人の手を祈ること」にも同様の説話が収録されている。

簠簋内伝
『簠簋内伝』は『金烏玉兎集』とも呼ばれ、後世に陰陽道の経典となる秘伝書。晴明が著者に仮託されている。

近世

芦屋道満大内鑑
朱雀天皇の御代、天文博士の加茂保憲が急死し、陰陽道の奥義書『金烏玉兎集』を誰が継ぐかをめぐって争いが起こり、高弟にあたる安倍保名と蘆屋道満も巻き込まれる。そのうちに同書が盗まれる事件が起き、保憲の娘で安倍保名の恋人である榊の前がこの争いを苦に自害。保名は悲嘆のあまり気がふれてしまい、形見の小袖をまとい榊の前の幻を追って徘徊する。

信太森に至った保名は、榊の前と瓜二つの妹・葛の葉に出会い、正気に戻る。保名は、信太森の中で石川悪右衛門に追われていた白狐を助けるがその際に重傷を負う。その時に介抱してくれたのが葛の葉で、二人は夫婦となり男児(安倍童子。のちの安倍晴明)に恵まれて幸せに暮らしていた。

ところが童子が五歳になった折、葛の葉は自らの正体が本物の葛の葉ではなくかつて保名に救われた白狐であると明かし、童子を保名に託し断腸の思いで信太森へ帰って行った。去り際に障子へ書き残したという和歌「恋しくば たずね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」は名高い。

この『芦屋道満大内鑑』を始めとして、晴明の父を安倍保名という人物、母を葛の葉という狐とする作品が存在する。
『安倍晴明物語』
浅井了意作の仮名草子

現代

小説家の夢枕獏の書いた長編小説『陰陽師』の影響で平安時代に活躍した天才的な占い師や魔術師として様々なメディアで取り扱われている。

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ゆかりの事物

要約
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陰陽道

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晴明紋
  • セーマンドーマン - 現在に残る陰陽道の名残と言われる咒であるが、五芒星と九字が描かれていることから安倍晴明の吉祥紋であり、蘆屋道満安倍家陰陽道の名残ではないかとも言われている。

寺社

さらに見る 都府県, 名称・所在地 ...

この表の他にも晴明を祭神として祀る晴明神社が各地に存在している。

由緒地

後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したため、日本各地に晴明を祀った晴明塚といわれる塚が建立されている。他にも以下の土地に伝承が残る。

  • 屏風ヶ浦(千葉県銚子市)- 延命姫から逃げる晴明は屏風ヶ浦「通漣坊」にて着物と履き物を脱ぎ捨て投身自殺を装い、自らは近くの寺に身を隠した。その晴明の着物と履き物を見て延命姫が身投げした場所。
  • セーメーバン山梨県大月市)- 山名が晴明に由来するという伝承がある。
  • 喜八河戸きはちごうど(岐阜県揖斐川町)- 晴明が諸国巡遊の途中、当村の住人喜八の家に宿した折に湧き出る清水の効力を褒めた現存する井戸[32]
  • 晴明塚(静岡県掛川市)- 晴明が津波被害の話しを聞き、あずき色の小石を積み上げて祈祷し、以後この村だけ津波の被害がなくなったと伝えられている。
  • 阿寺の七滝(愛知県新城市)- 晴明が若年期に修行したという伝説が残る滝
  • 晴明塚(愛知県蟹江町)- 日吉神社の鬼門封じの場所。晴明が火伏せの祈祷を行った場所とされ、その時に用いた刀や法螺貝を埋めた場所と伝えられる[33]
  • 一条戻橋(京都市上京区)- 『源平盛衰記』によれば、晴明は自分が操る式神十二神将を橋の下に隠していたと書かれている。
  • セイメイさん(兵庫県加古川市)- JR加古川線厄神駅建築工事中に掘り出された顔像が刻まれた石板。病気平癒に霊験あらたかとされる[34]
  • 猫又の滝(和歌山県田辺市龍神村)- 晴明が里の妖怪を杖を柱に笠を屋根とみなして三日三晩護摩を焚き、その法力で滝に封じ込めた伝承が残っている[35][31]
  • 笠塔山 (和歌山県田辺市龍神村)- 晴明が妖怪を笠の下に封じ込めて退治したという伝承がある[36]
  • 晴明の蛭伏石(和歌山県田辺市本宮町)- 血を吸うヒルに悩む住人のもとに現れた晴明が、祈祷によってそれを抑え、この石を大切にするよう言い残して去ったとの伝承がある[31]
  • 安倍晴明の腰掛石(和歌山県田辺市中辺路町)- 熊野を旅する途中、この石に腰を下ろして休んでいた晴明。その時、上方の山がにわかに崩れはじめ、法力で崩壊を未然に食い止めたと伝えられている[31]

生誕地

  • 猫島(茨城県筑西市)-『簠簋抄』(ほきしょう)に書かれた「簠簋内伝」の由来に、安倍晴明が猫島で誕生したとの伝承が記されている。猫島には晴明が築いたことに由来する晴明橋という石橋があったとされ、現在は晴明橋公園内に「安倍晴明生誕の地」の石碑がある[37]
  • 坂本(滋賀県大津市)-『簠簋袖裡伝』に書かれた「簠簋内伝」の由来に、安倍晴明は花山天皇の代に坂本に出生したと記されている[38]
  • 讃岐国香東郡井原庄(香川県高松市香南町)-『空華日用工夫略集』によれば安倍晴明は讃岐出身とされている。『讃岐国大日記』『讃陽簪筆録』によれば讃岐国香東郡井原庄、丸亀藩の公選地誌『西讃府志』によれば讃岐国香川郡由佐に安倍晴明が生まれたとされている。[要出典]

墓所

  • 安倍晴明墓所(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町12)- 安倍晴明は寛弘2年(1005年)9月26日に85歳で亡くなり、嵯峨野の「塔頭・寿寧院」に葬られたと伝わっている。荒廃していたため、昭和47年(1972年)に晴明神社天社土御門神道の協力の下、晴明神社奉賛会により神道式に改修・建立されて、現在晴明神社の飛び地境内として管理されている。
  • 赤碕塔(鳥取県東伯郡琴浦町赤碕)- 町内の名所である花見潟墓地の東端に高さ約3mの宝篋印塔があり、昭和10年(1935年)に調査の結果「赤碕塔」と命名され、昭和31年(1956年)5月には鳥取県指定保護文化財に指定される。制作年代は鎌倉末期頃とされている[39]この赤碕塔は元禄7年(1694年)『伯陽六社道乃記』に「晴明たうまん」、安永2年(1772年)『伯路記』に「安倍道満晴明ノ墓アリ」との記述があり、この塔は安倍晴明の供養塔と考えられている。近くには蘆屋道満の供養塔もある。[要出典]
  • 晴明霊墳(岡山県浅口市金光町占見宮東)- 石碑は明治22年(1889年)建立とある。この晴明霊墳碑から500mほど東の荒神社の隣に「道満」碑も鎮座する。[40]

冠名語

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脚注

参考文献

関連項目

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