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寺田信義
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寺田 信義(てらだ のぶよし、1932年〈昭和7年〉11月1日 - 2004年〈平成16年〉9月22日)は、日本の脚本家・放送作家。福岡県久留米市出身。新潟県立三条高等学校を経て、中央大学法学部卒[1]。在学中に学映協(全国学生自主映画製作協議会)に参加し、その縁で『ともしび』(1954年/監督:家城巳代治)を執筆して脚本家デビューを果たした。1957年には戦後映画史の傑作とされる『異母兄弟』(原作 : 田宮虎彦 監督:家城巳代治)を依田義賢と共同執筆し、高い評価を受けて名声を確立した後、独立プロの活動を経て日本映画復興会議(初代議長:今井正)に参加。[2][3]社会派映画から日活青春映画、アクション、さらにはテレビドラマまで幅広く手掛け、現実社会や時代性を鋭く反映した作風で知られる。[4]
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経歴
要約
視点
戦後間もない時期から脚本家として活動を開始。師と仰いだ家城巳代治監督と組んだ『ともしび』(1954年、新世紀プロ)[5] や『異母兄弟』(1957年、独立映画)は、庶民の視点と人間的温かみを兼ね備えた作劇で高く評価された。特に『異母兄弟』は、戦後の庶民生活や社会矛盾、軍国主義が残した家庭の傷跡を描き、1958年のカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭でグランプリ(クリスタル・グローブ賞)を受賞した。[6] 寺田は当時20代前半であった事からこの映画祭での受賞については、脚本家として史上最年少だったという関係者からの証言もあるが、定かではない。
寺田は映画脚本家としての活動に加え、国際文化運動にも関与した。1958年10月にソ連・タシケントで開催された第1回アジア・アフリカ作家会議に日本代表団の一員として参加し、伊藤整、野間宏、加藤周一、遠藤周作らとともに列席した。[7]さらに1966年6月に中国・北京で開かれたアジア・アフリカ作家緊急会議にも参加し、白石凡、中島健蔵、西園寺公一、由起しげ子ら著名な作家・文化人とともに日本代表団を構成した。(→集合写真)[8]
1950年代半ばからは日活での脚本を手がけるようになり、1956年、川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』(日活)では井手俊郎と共同で脚本を執筆した。戦後下町を舞台に男女の人間模様を描いた本作は、日本映画のリアリズムを代表する作品の一つとして後年も高く評価されている。[9]また、1958年には映画『踏みはずした春』で脚本(岡田達門と共同脚色)を担当した。同作は鈴木清順監督の「太陽族青春映画」第1作とされ、非行矯正ボランティアを題材とした社会派作品である。[10][11][12][13] さらに1959年には山崎徳次郎監督、そして寺田も自ら脚本したオムニバス映画『拳銃0号』(日活)[14][15][16]で新人の赤木圭一郎に注目。同年の『素っ裸の年令』(監督:鈴木清順)では脚本を担当するとともに赤木を主役に抜擢し、本格的デビューを実現させた。青春・アクション映画に人物の心理と背景を緻密に織り込み、単なる娯楽を超えた人間ドラマへと高めた。[17][18]
1960年代からはテレビドラマにも活動を広げ、『死・わが愛』(1961年、日本テレビ)、『現代愛』(1961年、東海テレビ/第16回芸術祭参加作品)、『ひとりっ子』(1962年、RKB毎日/第17回芸術祭参加作品・放送中止)、『三匹の侍』(1963年、フジテレビ)などで評価を得た。
『ひとりっ子』は、防衛大学校進学を題材とする社会派ドラマであったが、放送直前にスポンサーの東芝が番組提供を拒否したため放送中止となった[19]。その背景については、「しんぶん赤旗」(2013年) や 「毎日新聞」(2017年) などが、当時の政権や右翼勢力の関与を報じている[20][21]。また、業界データベースや関係者証言でも「政治的忖度による中止」が指摘されている。[22]放送されなかったにもかかわらず、本作は『第1回ラジオ・テレビ記者会賞 特別賞』を受賞した。[23]
1964年には名古屋テレビ制作の『私は踊り続ける』(第19回芸術祭参加作品)を手がけ、原爆被害を受けた実在の女性バレリーナを主演に起用。会話やナレーションを排し、現実音と効果音のみで構成する実験的手法と反核・反戦のメッセージで知られる。[注 1]また、1968年、関西テレビで放送されたテレビドラマ『青やからわたったんや』で脚本を担当し、芸術祭奨励賞を受賞した。[24][25]
音楽分野では、鹿内孝のデビュー曲「俺は最低な奴さ/殺さないでくれ」(1962年、キングレコード)の作詞を担当。後年、内田裕也がこの曲を“SCAR”としてリメイクし、自作アルバムに収録した。[26][27][28]
日本シナリオ作家協会や日本放送作家協会の理事を務めるなど、放送界の第一線で活動していたが、[29][30]1971年に脳溢血で倒れ左半身不随となり、以後、執筆活動が大きく途絶える。それでも病後にタツノコプロ制作のテレビアニメ『樫の木モック』(1972年)[31] 第8話や、『てんとう虫の歌』(1975年)[32] 第22話の脚本を担当している。80年以降は映像の表舞台に再び現れることはなく、2004年9月22日に逝去。日本映画界に「彗星のように現れて消えていった」と語られる存在となった[要出典]。
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主な作品

映画脚本
- 『ともしび』(1954年、新世紀プロ)
- 『東京の人 前後篇』(1956年、日活)[33]
- 『洲崎パラダイス 赤信号』(1956年、日活)
- 『感傷夫人』(1956年、日活)[34]
- 『異母兄弟』(1957年、独立映画)
- 『白い夏』(1957年、日活)[35]
- 『美しき不良少女』(1958年、日活)[36]
- 『踏みはずした春』(1958年、日活)[37]
- 『東京は恋人』(1958年、日活)[38]
- 『拳銃0号』(1959年、日活/オムニバス)[39]
- 『女子大学生 私は勝負する』(1959年、東宝)[40]
- 『人形の歌』(1959年、日活)[41]
- 『素っ裸の年令』(1959年、日活)
- 『街に出た野獣』(1960年、日活)[42]
- 『十七歳の逆襲 暴力をぶっ潰せ』(1960年、第二東映東京)※原作兼任[43]
- 『十七歳の逆襲 俺は昨日の俺じゃない』(1960年、第二東映東京)[44]
- 『俺らは空の暴れん坊』(1961年、ニュー東映東京)[45]
テレビドラマ
- 『36号室』(1959年、NHK)[46]
- 『永い黒い雨』(1959年、NHK/第14回芸術祭参加作品)[47][48]
- 『西鶴師走噺』(1959年、NHK)[49]
- 『象牙の塔』(1959年、日本テレビ)[50]
- 『死・わが愛』(1961年、日本テレビ)
- 『現代愛』(1961年、東海テレビ/第16回芸術祭参加作品)
- 『ひとりっ子』(1962年、RKB毎日/第17回芸術祭参加作品・放送中止)
- 『三匹の侍』(1963年、フジテレビ)
- 『中之島ニッポン』(1964年11月8日、ABC/TBS「ナショナル日曜観劇会」)[51]
- 『私は踊り続ける』(1964年、名古屋テレビ/第19回芸術祭参加作品)
- 『あの人は帰ってこなかった』(1965年、フジテレビ「シオノギ・テレビ劇場」)
- 『若者たち』(1968年、フジテレビ)[52]
- 『青やからわたったんや』(1968年、関西テレビ/明治百年記念芸術祭参加作品)
- 『孤独のメス』(1969年、TBS)
テレビアニメ
音楽(作詞)
- 内田裕也「SCAR」(1978年『A Dog Runs』、1985年『No More Comics』収録)
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賞歴
- 1958年 - 『異母兄弟』:カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭グランプリ(クリスタル・グローブ賞)受賞[54]
- 1958年 - 『異母兄弟』:第1回 アフロ・アジア映画祭(Afro-Asian Film Festival) - タシケント映画祭
参加証授与(ディプロマ現存)[55]寺田信義に授与されたディプロマ(1958年) - 1962年 - 『ひとりっ子 (テレビドラマ)』:ラジオ・テレビ記者会賞 特別賞受賞[56]
- 1968年 - 『青やからわたったんや』 : 第23回芸術祭奨励賞 [57]
脚注
参考文献
ギャラリー
関連項目
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