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岡崎トミ子

日本の政治家、アナウンサー ウィキペディアから

岡崎トミ子
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岡崎 トミ子(おかざき とみこ、1944年昭和19年〉2月16日[1] - 2017年平成29年〉3月19日[2])は、日本政治家アナウンサー

概要 生年月日, 出生地 ...

衆議院議員(2期)、参議院議員(3期)、文部政務次官村山内閣)、参議院総務委員長、参議院災害対策特別委員長国家公安委員会委員長第82代)、内閣府特命担当大臣消費者及び食品安全少子化対策男女共同参画)、民主党副代表を歴任。

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来歴

要約
視点

福島県福島市出身[3]。最終学歴は、福島県立福島女子高等学校(現:福島県立橘高等学校)卒業[3][注釈 1]

福島女子高では体操部に所属し、国民体育大会に出場した[1]。福島女子高を1962年(昭和37年)に卒業する[3]と同時にラジオ福島に入社し、アナウンサーを務めた[1]

1967年東北放送へ移籍し[1]、「希望音楽会」「子ども音楽コンクール」「歌のない歌謡曲」「クイズみやぎ東西南北」等の教養、娯楽番組や、毎年終戦記念日の前後に放送される反戦平和がテーマの特別番組などを担当した。また東北放送では、同社労働組合の副委員長を務めた[要出典]

1990年、東北放送を退社。同年2月18日の第39回衆議院議員総選挙日本社会党公認で旧宮城1区から立候補し、初当選した[4]

1993年第40回衆議院議員総選挙で再選[4]

1994年村山内閣では文部政務次官に任命された[4]

1996年、社会党の解党に伴い、その後継政党である社会民主党へ加わって副党首に就任するも、間もなく離党。

同年、新党さきがけを離党した菅直人鳩山由紀夫新進党鳩山邦夫、元北海道知事横路孝弘らが結成した旧民主党結党に参加し、党副代表に就任[4]

しかし結党直後の第41回衆議院議員総選挙では、民主党公認として宮城1区から立候補するも新進党の愛知和男に敗れ、落選[5]

1997年自由民主党市川一朗の辞職に伴う参議院宮城県選挙区補欠選挙に立候補し、参議院議員に当選(なお、市川は宮城県知事選挙に立候補したが、現職の浅野史郎に敗れ落選)[4]

2001年第19回参議院議員通常選挙で再選[4]

2004年9月、民主党副代表に就任[4]

2006年3月31日、民主党代表の前原誠司が、堀江メール問題の責任をとり辞任を表明[6]。前原の辞任に伴う代表選挙(4月7日実施)では菅直人の推薦人に名を連ねた[7]

2007年7月、第21回参議院議員通常選挙で3選[4]。政権交代後は民主党宮城県連代表として、宮城県建設業協会との関係強化を深めたが[8]、第19回宮城県知事選挙などで敗北が続いたことを受け、2009年10月30日に代表を辞任。

2010年9月の民主党代表選挙では現職・菅直人の推薦人に名を連ね、選挙対策副本部長を務め菅の再選に尽力。選挙後の内閣改造により発足した菅改造内閣国務大臣に就任。国家公安委員会委員長内閣府特命担当大臣消費者及び食品安全少子化対策男女共同参画)に任命され、初入閣[4]菅再改造内閣では再任されなかった。

2011年1月、民主党副代表に就任。併せて、党中央代表選挙管理委員長に就任。

2012年12月25日に行われた民主党代表選挙では海江田万里を支持した[9]

2013年7月21日第23回参議院議員通常選挙では、みんなの党和田政宗に5,000票余り及ばず、得票数3位となり落選[10]

2016年2月まで民主党宮城県連の最高顧問を務めた[11]

2017年3月19日午前、肝機能障害により仙台市内の病院で死去。満73歳没[2]

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政治活動・主張

要約
視点

問責決議案の提出

2001年3月14日、内閣総理大臣森喜朗問責決議案の答弁に立ち、森政権下で起きた数々の事件や問題をあげて「あなたがこの事態を深刻に受け止め、リーダーシップを発揮して立ち向かっている姿は全く見えてこない」と非難し、森内閣が推進していた「教育改革」についても「様々なスキャンダルを引き起こし、真相究明から逃げているあなたが、どんなに立派なことを言っても、子どもたちは絶対にあなたの話を聞かないだろう」「あなたには教育をする、教育改革を語る資格はない」「あなたにできる唯一の教育は、静かにこの壇上から立ち去ること」と非難した[12]

内政

  • 選択的夫婦別姓制度に賛成。婚姻によりどちらかの姓を選択しなければならないことは、どちらかが変わること。代わったほうは、今までの個が否定される感覚に陥ったり、社会的にも不自由な思いをすることになる。選択するかしないかの自由を制限しなければならないいかなる理由も見当たらない。お互いの生き方の自由を認め合うパートナーシップの考え方になるべき、と述べている[13]

韓国関連の活動

  • 2004年12月、韓国クォータ制に関する勉強団の顧問として訪韓した[14]
  • 2005年12月5日、韓国のウリ党女性議員を日本に招いた懇談会で挨拶に立ち「韓国の選挙制度、男女共同参画社会の実現にむけた韓国の政策、選挙のあり方、新人を発掘の仕方などについて、たくさんの勉強をさせていただいた」と述べた[15]
  • 2006年3月6日、民主党の党本部に韓国の国会議員2名を迎えた少子高齢社会と男女共同参画に関する意見交換で挨拶に立ち、2005年に韓国を訪問した際の謝辞を述べた上で「韓国で学んだ内容も活かして、わが国における真の男女共同参画社会の実現のために今後も努力していきたい」などと語った[16]
  • 2010年11月23日に発生した延坪島砲撃事件において、事件明けの24日、国家公安委員会委員長として全国の警察本部在日本朝鮮人総聯合会の動静を収集するよう指示した[17][18]。一方自身は事件発生日の23日は警察庁に登庁せず自宅待機していたことが明らかになった[19]

慰安婦問題関連

その他

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選挙歴

さらに見る 当落, 選挙 ...

所属団体・議員連盟

脚注

関連項目

外部リンク

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