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岡村輝彦
日本の判事、弁護士 ウィキペディアから
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岡村 輝彦(おかむら てるひこ)は、明治期の日本の判事、弁護士。浜松藩出身。鶴舞藩貢進生として開成学校に学び、ロンドンに留学してミドル・テンプルでバリスターの資格を得た。帰国して東京控訴院・大審院判事、横浜始審裁判所長を務めた後、辞官して弁護士として活動し、千島艦事件で弁護を行った。東京弁護士会会長、中央大学学長も務めた。
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生涯
要約
視点
上京前
安政元年7月20日[1]、同年12月20日[2]、安政2年7月2日[3]又は同年12月20日[4]、浜松藩士岡村義昌の子として大坂蔵屋敷に生まれた[1]。外祖父東園基貞により東園家の通字「基」から基之助と名付けられたが、後に光之助と改め[2]、14,15歳頃輝彦と名乗った[1]。
7歳の時、祖父岡村義理、父義昌が国元浜松に幽閉となり、家は困窮した[1]。藩校克明館に入学したが、開明的な祖父・父の方針で漢学は深く学ばず、『坤輿図識』『環海異聞』『三航蝦夷日誌』『高田屋嘉兵衛魯西亜物語』等を読んで海外事情を学んだ[1]。
上京
明治2年(1869年)父に従い上京し、箕作秋坪に外国語を学んだ[1]。明治3年(1870年)賀古鶴所と共に鶴舞藩貢進生に選ばれ、大学南校に入学し、明治7年(1874年)開成学校英吉利法律科に進んだ[1]。
イギリス留学
1876年(明治9年)6月第2回文部省留学生として渡英し、10月ミドル・テンプルT・D・C・アトキンス[8]に法学を学び、11月キングス・カレッジ・ロンドンに合格し、ミドル・テンプルに入学した[4]。
留学当初は鷹揚な性格で、メンドイズムの哲学者などと自称していたが、留学中に勤勉な性格に変わり[9]、試験勉強にのめり込むあまり神経衰弱、脳貧血を発症した[10]。露土戦争中はオスマン帝国を支持し、フェズを被ってロンドンを闊歩した[9]。
1880年(明治13年)1月法曹院試験に合格してバリスターとなり[4]、2月高等法院女王座部代議員となった[4]。新政府で出世した父から支援を受けて巡回裁判所にも参加し[11]、海事裁判所で海事法の実務も学んだ[4]。
判事時代

1881年(明治14年)2月帰国し、6月司法省民事局雇となり[4]、麹町区上六番町42番地の父の仮宅隣の茶畑畔に住んだ[13]。10月東京控訴院判事に就任した[4]。
1883年(明治16年)1月大審院に入り、3月刑事局に配属された[4]。大審院では長野県上高井郡奥山田村、中山村、牧村の間で争われた日影山境界争論一件に関わり、中村元嘉と現地の山奥に入り、村民の懐柔工作に耐えながら実検を行った[14]。
1885年(明治18年)7月英吉利法律学校設立者に名を連ね[15]、証拠法を教えた[16]。8月横浜始審裁判所長に就任し[4]、イギリスに倣い代言人の地位向上に努めた[4]。当初官舎に入ったが、後に神奈川台町に移り[17]、余暇には上京して高等文官試験委員、東京法学院・明治法律学校講師を務めた[18]。
弁護士時代

1891年(明治24年)3月裁判所を辞職して代言人となり、京橋区南鍋町に加え[1]、横浜在住の外国人の要請で横浜にも事務所を設けた[19]。
1890年(明治25年)第2回衆議院議員総選挙に神奈川県第2区と東京府第11区から出馬を要請されたが、辞退した[20]。
1892年(明治25年)千島艦事件が起こると、イギリスで海商法を学び、政府顧問ウィリアム・カークウッドと知遇のあった輝彦が担当を任され、横浜英国領事裁判所の法廷に立った[21]。上海英国高等領事裁判所でカークウッドが敗訴すると、1894年(明治27年)ロンドン枢密院に出張し[1]、勝訴して1895年(明治28年)4月帰国した[1]。また、在英中に日清戦争が開戦したため、新聞・雑誌で日本擁護の論陣を張った[1]。
1908年(明治41年)東京弁護士会会長に選ばれた[1]。1910年(明治43年)豊多摩郡千駄ヶ谷町大字穏田字源氏山173番地に転居した[22]。
晩年
1912年(大正元年)頃肺気腫性喘息に罹り、歩行時の呼吸が困難となったため、弁護士を閉業し、療養生活に入った[1]。1913年(大正2年)中央大学学長に就任したが、業務困難のため間もなく辞し、普段は千駄ヶ谷町の自宅に籠り、夏・冬は鎌倉紅ヶ谷の別荘に滞在する生活を送った[1]。
1915年(大正4年)12月暮風邪に罹り、青山胤通、入沢達吉、宮本叔等の診療を受けたが[1]、胃潰瘍を併発し、1916年(大正5年)2月1日午後1時25分千駄ヶ谷町の自宅で死去し[23]、4日駒込吉祥寺に葬られた[1]。戒名は大哲院殿高歩自在大居士[1]。
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栄典・授章・授賞
家族
父母
弟妹
- 長弟:岡村龍彦 - 医学博士。妻は広瀬実光の妹。[28]
- 長妹:美喜栄 – 安政3年(1856年)10月生。2ヶ月で没[2]。
- 次妹:万寿栄 – 万延元年(1860年)12月28日生[29]。明治15年(1882年)中村孟に嫁ぐ[17]。昭和14年(1939年)2月24日没[30]。
- 三妹:歌子 – 文久2年(1862年)4月8日生。新津村医師山内蒙済養女。明治13年(1880年)屋代垣と結婚するも、9月11日没[31]。
- 四妹:敏子 – 元治元年(1864年)6月19日生[31]。明治17年(1884年)10月岡山兼吉に嫁ぐ[17]。
- 五妹:政子 – 明治元年(1868年)10月15日生[32]。歌子死後、山内蒙済に嫁いだが、明治22年(1889年)11月20日没[33]。
- 六妹:多栄 – 明治7年(1874年)3月10日生。一時旧幕臣竹村忠恕養女[34]。明治25年(1892年)法学士植村俊平に嫁ぐ[35]。昭和16年(1941年)1月13日没[30]。
- 七妹:光子 – 明治9年(1876年)4月15日生[34]。明治26年(1893年)10月3日原嘉道に嫁ぐ[35]。
妻
子女
- 次男:将(すすむ) - 明治25年(1892年)6月生[38]。
- 四男:三二郎 - 明治32年(1899年)6月生[38]。
- 五男:於菟彦 – 明治35年(1902年)3月生[38]。海軍士官[40]。岡村昭彦、岡村春彦の父。
- 六男:康彦 – 明治38年(1905年)8月生[38]。東宮傅育官[40]。
- 七男:俊彦 – 明治39年(1906年)12月生[38]。東北帝国大学助教授[40]。
- 八男:健彦 – 明治41年(1908年)8月生[38]。昭和7年(1932年)三菱商事水産部勤務。昭和10年(1935年)8月17日自殺[41]。
- 長女:絹子 - 明治19年(1886年)12月生。林春雄妻[38]。
- 次女:幸子 – 明治22年(1889年)11月生。緒方知三郎妻[38]。
- 三女:晴子 – 明治33年(1900年)8月生[38]。海軍士官加藤隆義妻[40]。
- 四女:愛子 - 明治36年(1903年)6月生[38]。
- 五女:依子 – 明治44年(1911年)1月生[42]。海軍士官原五郎妻[40]。
脚注
参考文献
関連項目
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