トップQs
タイムライン
チャット
視点
岡田幸喜
熊本県出身の元プロ野球選手 ウィキペディアから
Remove ads
岡田 幸喜(おかだ ゆきよし、1942年11月5日 - )は、熊本県[1]出身の元プロ野球選手。
経歴
鎮西高校では好守好打の三塁手として知られた[1]。1961年夏の甲子園予選中九州大会準決勝に進むが、エース門岡信行を擁する高田高に完封負けを喫する。
1962年に阪急ブレーブスへ入団し、強肩を活かして捕手へと転向した[1]。1965年に一軍に上がり5試合に先発マスクを被る。しかし正捕手の岡村浩二の壁を破れず、二軍では強打の捕手として活躍するも、一軍では出場機会に恵まれなかった[1]。
1969年の読売ジャイアンツとの日本シリーズ第4戦では岡村が4回裏に退場。その後は中沢伸二がマスクを被っていたが、代打が出た関係で岡田が8回からマスクを被ることになった。その回に岡田は岡村退場の報復としてサイン違いを装って投手からの投球をわざと捕球せず、岡田功球審を投球の的にするという危険行為に出た。この行為は相手監督の川上哲治や翌日の朝日新聞の朝刊などで批判された[2][3]。
→「日本シリーズ初の退場事件」も参照
1970年は岡村の故障欠場もあって25試合に先発出場。1972年に岡村が東映フライヤーズへ移籍し、岡村とのトレードで入団した種茂雅之の控えとなるが、同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズは3試合に出場している。同シリーズ最後の打者でもある(高橋一三から三振)。1973年には種茂と正捕手を争い60試合に先発マスクを被る。しかし翌1974年には中沢伸二が台頭し出場機会が減少。1976年限りで現役引退[1]。
1978年から1981年まで阪急で二軍コーチを務める。コーチ退任後は同球団のスコアラーを2002年まで務め[1]、球団合併後も球団職員として活動した。
Remove ads
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 47 (1962年 - 1970年)
- 23 (1971年 - 1976年)
- 66 (1978年 - 1981年)
- 122 (2006年 - 2008年)
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads