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戒能朶一
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戒能 朶一(かいのう だいち、1916年[3] - 没年不明)は、広島県出身のプロ野球選手(内野手)。
来歴・人物
広陵中時代は、1935年春の甲子園大会に出場し、チームの準優勝に大きく貢献した。この大会で戒能は三塁手として出場し、優秀選手賞に輝いた[4]。その後明治大学を3年で中退し、1938年8月25日、名古屋軍に入団[2]。
1938年秋季シーズンが開幕すると、「1番・二塁手」のレギュラーとして定着。打率は低いながらも勝負強い打撃でチームを支えた。秋季シーズン40試合に全出場。10月23日のライオン戦では4安打の活躍&サヨナラヒットを打ち、それから5日後の10月28日のライオン戦では、4打席連続で四球を選んでいる[5]。
1940年まで名古屋軍に在籍した記録が残っているが[6]、選手としての出場は1939年3月28日の南海戦が最後である(村松幸雄の代打として出場し、三振に倒れた[2])。その後応召され、戦死した(没年月日・死没場所は不明)。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 1 (1938年秋 - 1940年)[7]
脚注
関連項目
外部リンク
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