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Laputa
日本のヴィジュアル系ロックバンド ウィキペディアから
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Laputa(ラピュータ)は、日本のヴィジュアル系ロックバンド。「黒夢とともに名古屋ビジュアル・シーン創成期を形成した」といわれる[5][4]。
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概要
バンド名は、アイルランドの作家ジョナサン・スウィフトの小説『ガリヴァー旅行記』に登場する、空想人の島ラピュータにちなんでakiによって名付けられている。ファンクラブ名は2000年まではVOYAGE[6] だったが、4Lへと変わった。ファンの呼称は廃人。
来歴
要約
視点
1997年以降はオフィシャルサイトのアーカイブを参考に記述した[7]。
- 1992年
- Tomoiは高校時代から、筋肉少女帯、安全地帯、REACTIONなどをはじめ、年間100本以上のライヴにコンサートスタッフとして参加し、機材スタッフとしての経験を積んだ[8]。このイベンターでのコンサートスタッフのアルバイトには、akiも参加していた[9]。
- 同じコンサートスタッフのアルバイトで知り合ったHidenoを中心に、aki、Tomoi、kusubaという高校の同級生3名の計4名でAi SICK FACEを結成する[9]。
- 1993年
- Tomoiによれば、ライヴハウスでSilver-Roseのステージを見たことで自身のプロ意識の欠如を実感し、Ai SICK FACEの解散を決めたという(ちなみに、その当時Sliver-Roseでギターを弾いていたのは、Kouichiである。)[9]。Laputa結成前からakiとTomoiで曲作りを始める[10]
- 7月、元Ai SICK FACEのaki、Tomoiを中心に結成。
- 8月29日、名古屋MUSIC FARMで開催された2daysイベントで初ライブを行う。Silver-RoseのKAIKIが主催するイベントであり、のちにLaputaに加入するJunjiもAd de Vidarで参加していた[10]。
- 9月4日、名古屋MUSIC FARMにてデモテープ『Saddistの夢』80本を配付。
- 11月13日、名古屋MUSIC FARMのライブでギタリスト・Hidenoが加入。
- 12月20日、デモテープ『奈落の底』発売。
- 12月29日、Hiro脱退。
- 1994年
- 1月20日、年末のライブで脱退したHiroの穴を埋める形でJunjiが加入。
- 5月5日、マキシシングル『私が消える』を発売。初回プレス1000枚は予約完売。
- 5月から、ツアー「Paradoxical Reality TOUR」を開催。
- 7月25日、Hideno(→Merry Go Round)が脱退。その3日後の28日に元Silver-RoseのギタリストKouichiが加入する。
- 1995年
- 1月7日、音楽性の違いなどからKusuba(→Lúcide)が脱退。
- 1月12日、名古屋MUSIC FARMで行われたインフォメーションクラブ会員限定ライブからJunjiがベーシストに転向。Vo,aki・Gu,Kouichi・Ba,Junji・Dr,Tomoiの編成で落ち着く。
- 2月24日、1stフルアルバム『眩〜めまい〜暈』発売。初回プレス5000枚は予約完売。
- 3月から、ツアー「Paradoxical Reality TOUR II act 眩〜めまい〜暈」を開催。
- 9月、活動拠点を名古屋から東京に移すと同時にシェイクハンドと契約。オフィシャルファンクラブ「VOYAGE」を設立する。
- 12月、ツアー「Paradoxical Reality TOUR III」を開催。
- 1996年
- 2月25日、ミニアルバム『眩めく廃人』をシェイクハンドレコードより発売。オリコンインディーズチャート初登場2位を記録する。
- 3月から、ツアー「Paradoxical Reality TOUR IV act 〜眩めく廃人〜」を開催。
- 4月16日、ツアーファイナル公演を渋谷ON AIR WESTで行う。
- 7月7日、ライブビデオ『箱庭』をシェイクハンドレコードより発売。オリコンインディーズビデオチャート初登場1位。
- 8月、ツアー「Paradoxical Reality TOUR V act 〜箱庭〜」を開催。
- 8月10日、下北沢CLUB QUEで行われたFC限定ライブで、メジャーデビューを発表。
- 9月30日、デビューシングル『硝子の肖像』を東芝EMIより発売。
- 10月23日、デビューアルバム『蜉〜かげろう〜蝣』を東芝EMIより発売。それに伴って、「TOUR 蜉〜かげろう〜蝣」を開催。
- 1997年
- 6月8日、東京の新宿アルタ前広場(新宿ステーションスクエア)にてゲリラライブを行って約5000人を動員し、その模様が翌日のスポーツ紙6紙とTV番組で取り上げられる[11]。
- 7月から、ツアー「TOUR 絵〜エマダラ〜斑」を開催。
- 1998年
- 4月から、ツアー「TOUR 麝〜ジャコウ〜香」を開催。
- 1999年
- 8月から、ツアー「1999 TOUR 翔〜カケラ〜裸」を開催。
- 10月23日、香港のロックイベント「Rock'n Roll Circuit In Hong Kong」に参加し、イベントのトリをつとめる[12]。
- 2000年
- 2001年
- 4月から、ツアー「Laputa TOUR 001 Programized Heaven」を開催。
- 2002年
- 7月から、ツアー「Laputa TOUR 002 New Temptation」を開催。
- 2003年
- 5月から、ツアー「Laputa TOUR 003 Sparks Monkey」を開催。
- 2004年
- 9月5日、渋谷公会堂でのライブを最後に11年と1日の活動に終止符を打った。
- 2024年
- 8月28日、日本クラウン在籍時に発売したシングル、アルバム全8作品が各サブスクリプション・サービスで配信解禁され、Junji(ベース)がコメントを発表した[13]。
- 9月28日、DIAMOND HALLにて一夜限りの復活公演「ALL BURST」を開催[14]。
- 2025年
- 8月29日、LINE CUBE SHIBUYAにて、「Without your L」を開催[15]。
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メンバー
解散時のメンバー
旧メンバー
- Hiro(ヒロ) ギター担当
- 1993年12月29日に脱退。脱退後、ALBTROSS加入。
- 現在は会社経営をしながら、JEALOUS WILDで活動している。
- Hideno(ヒデノ、1970年5月24日 - ) ギター担当 AB型 愛知県出身
- 1995年、Merry Go Roundに加入。後に楽器屋を営んでいる。
- Kusuba ベース担当
- 1995年の脱退後にLúcideを結成。2000年にはKraidhearzを結成。後に会社を経営。
特徴
要約
視点
コンセプト、歌詞
リーダーのakiは、「ダーク、ハード、メロディアス」をコンセプトとして掲げていた[10]。これは、ステージでは「非現実的な世界観を演じて」いく一方、サウンド面ではハードロック、ヘヴィメタルを志向するということであった[10]。だが、活動を開始した初期の客層は80年代メタルシーンよりも、UKポストパンクシーンをバックボーンにしている人が多く、その点では話が合わなかったこともあるとakiは述べている[17]。
インディーズ時代には、血糊を吐いたり、演劇的な要素をライブに取り入れるなど[18]、ある種ショック・ロックのようなシアトリカルなパフォーマンスを行っていた。ただ、ヴィジュアル面に関しては「肝になる音楽という部分で、僕らの音楽に必要だからメイクをしてる(中略)音にいちばん合うメイクであったり、衣装であったり、ステージングであったり、そういう部分での"役"を見せていきたい」と語っており、あくまで音楽が主だという態度を示した[19]。
インディーズ時代の初期の歌詞では、DEAD ENDやGASTUNKに影響を受けて、難しい漢字[† 1]を使って、その漢字の持つ雰囲気から退廃的でダークな世界観を出そうとしていた、とakiは述べている[19]。当時はボードレールや萩原朔太郎の詩集からもインスパイアされていたが[20]、メジャーデビュー後は日常で使うような言葉を用いて、遠回しに抽象的な内面の世界を表現することに関心が移っていった[20]。「謎めいた答えのないものに対する問いかけ」が共通するテーマになっているとも語っていた[20]。
音楽的特徴
CD Journalのレビューは初期の音楽性を「エッジの鋭いアグレッシヴ/ダーク・サイケな音楽性とゴシック的なビジュアル[5]」や「ハード・ロック、ヘヴィ・メタルをしっかりと吸収した安定したサウンド[3]」などと評している。音楽評論家の市川哲史は、前期のサウンドを「耽美かつダークなV系サウンド」と表現している[4]。後期のサウンドは「デジタル・ビートの大胆な導入がバンド自体の変容と並行している[3]」と評価されているように、エレクトロニック・ダンス・ミュージックに影響されたデジロックのような音楽性へと変わった[4]。初期から中期にかけてはKouichiがメインの作曲を手がけていたが、後期からはJunjiの作曲が増えている。
受けた影響
aki
高校時代にモトリー・クルーを聴いたことで衝撃を受けてLAメタルにはまり、その後はDEAD END、LOUDNESS、44MAGNUM、GASTUNK、REACTIONなどのジャパニーズ・メタルをよく聴いていたという[21]。「コピーをやっていて面白かったのは、REACTION、DEAD END、SNIPER、MARINO、TILT」だったとも述べている[21]。自身のお気に入りのアルバムには、モトリー・クルーの『華麗なる激情』、REACTIONの『INSANE』、DEAD ENDの『DEAD LINE』を挙げている[17]。
Kouichi
VOW WOW、EARTHSHAKER、ANTHEMなどを高校時代によく聴いたとインタビューで答えており[22]、なかでもVOW WOWは特に好きなバンドだという[23]。また、影響を受けたギタリストはイングヴェイ・マルムスティーン[23][24]と元JUSTY-NASTYの辻剛[23] である。お気に入りのアルバムはイングヴェイ・マルムスティーンの『セブンス・サイン』、LOUDNESSの『DISILLUSION 〜撃剣霊化〜』[† 2]とのこと[25]。
Junji
デュラン・デュラン[26]、ボン・ジョヴィ[26]、バウハウス[27]、デッド・カン・ダンス[6]、ザ・キュアー[6] などを好きなバンドとしており、ベーシストとして影響を受けたアルバムとして、スティングの『フィールズ・オブ・ゴールド〜ベスト・オブ・スティング1984-1994』、ビョークの『ポスト』、レディオヘッドの『ザ・ベンズ』をあげている[28]。Vicious監修のコンピレーションアルバムでは、2Kの「***k The Millennium」とレディオヘッドの「パラノイド・アンドロイド」をお気に入りの曲として選んでいるほか[29]、あるインタビューでメイヤ、エンヤ、スマッシング・パンプキンズを好きなアーティストとして挙げていた[30]。また、好きなジャンルはダンス・ミュージック[30] とトリップ・ホップとしていた。
Tomoi
デュラン・デュラン[31]、TOTO[31]、Journey[31]、REACTION[32]を好きなバンドに挙げている。また、高校時代は聖飢魔II、LAメタルなどのコピーをしており[33]、理想のドラマーとしてはDEAD ENDの湊雅史や筋肉少女帯の太田明のようなスタイルと語っていた[34]。
与えた影響
後続のアーティストに対する影響では、Sadieのギタリスト剣[35]とDIAURAのギタリスト佳衣[36]、DのギタリストRuizaとHIDE-ZOU[37] などがKouichiに対するリスペクトを表明している。特に、HIDE-ZOUはグッズもたくさん持っているほか、「Kouichiさんの機材を参考に買ったことがありました」と述べている[37]。
vistlipのギタリスト海は「バンドをやろうって思ったきっかけ、ヴィジュアル系にのめり込んだきっかけ」として、Laputaの「硝子の肖像」を挙げている[38]。また、C4やBABYMETALで活動するギタリスト大村孝佳も「僕、Laputa大好きなんですよ」と述べ[39]、中学生の頃からLaputaファンだったことを公言している[40]。ナイトメアのYOMIは、高校生の時にバンドでLaputaのコピーをしていた[41]。Laputaメンバーとも交流があるKayaは、「CRUSH!-90’s V-Rock best hit cover songs-」というカヴァーコンピレーションアルバムで「揺れながら…」をカヴァーしている[42][43]。
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評価
元FOOL'S MATEの編集者であるライターの早川洋介は、Laputaを「アグレッションと叙情性の両立を高次元で確立できる数少ないバンド」と評価している[44]。
ライターの加納一美は、彼らの作品は「知的な構築性」から成り立っており、その音楽性は「非常に哀しくも美しく、時に激しさを訴えるメロディ、デュアル・ショックをも体感させる重々しいリズム、天と地を往来する大気を震わせるヴォイス」から出来ていると分析している[45]。
交友関係
ストーナーロック/ドゥームメタルバンドEternal Elysiumの岡崎幸人はakiの高校の先輩であり[46]、「奈落の底」のデモテープのエンジニアやライブのPAなどを担当したこともあった。
黒夢のベーシストであり、現在はakiのサポートもしている人時は、仲の良いアーティストとしてakiを挙げている[47]。4枚目のソロアルバムを作る際にも、「akiちゃんから“人時くん、ベース・ソロの作品を作らない?”って言われた」ことがきっかけのひとつになったことを語っている[48]。
また、同じ頃に東京に進出してメジャーデビューしたLa'cryma Christiとはバンド間で親交があり、レコーディングスタジオへの行き来などもしていた[49]。当時、SHUSEは対談で「俺は個人的に一緒にシーンを盛り上げていけたらいいかなとは思ってる」と語っていた[49]。
ディスコグラフィ
要約
視点
デモテープ
- Saddistの夢(1993年9月4日)
- 奈落の底(1993年12月20日)
シングル
アルバム
バンドスコア
VIDEO / DVD
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タイアップ一覧
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ミュージックビデオ
監督 | 曲名 |
生西康典/掛川康典 | 「POPular UPrising」 |
井上強 | 「Shape〜in the shape of wing〜」「Silent on-looker」「Sparks Monkey」「meet again」 |
西川智彦 | 「深海」 |
不明 | 「Breath」「Chimes」「Feelin' the sky」「Virgin cry」「WITH the WIND」「eve」「WITH the WIND」「硝子の肖像」「揺れながら…」 |
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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