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新垣敏之
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新垣 敏之 (あらかき としゆき、英: Toshiyuki Arakaki、1965年2月17日 - ) は、沖縄県沖縄市出身[1]のオートバイ・ロードレーサー。1987年の全日本ロードレース選手権 ジュニアTT F-IIIクラスチャンピオン[2]。身長161cm、体重54kg。
1992年よりロードレース世界選手権・GP500(現MotoGP)に参戦した。ヨーロッパのメディアではToshi Arakaki表記で報じられることもある[3]。
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経歴
要約
視点
初期の経歴
子供のころからオートバイが好きで早く乗りたいと思っており、中学の頃からは家の近所にあった米軍基地の中でアメリカ兵たちと一緒にモトクロスで遊ぶようになった[1]。この頃の仲間には、1982年全日本モトクロス・ジュニア125cc王者となるロン・キンダーも一緒に走っていた[1]。
16歳になるとすぐに二輪運転免許を取ったが、レースに参戦したい一心で地元の高校を1年を中退し、17歳の時に沖縄を出て兄を頼り上京。何の当てもない上京だったが、オートバイが好きだという気持ちだけで就職先を探し、バイクショップでの仕事を見つける。しかし最初の店はまったくモータースポーツ活動に関わっていない店だったため1年で辞め、レース活動に理解のあった「東和モータース」で整備工を募集しているのを知り入社する[1]。
仕事をしながら東和モータースでカワサキ・GPZ400を購入するローンを組み、2-3年ほど富士スピードウェイのプロダクションレースに参加していた。もっと本格的にロードレースに参戦したい気持ちが高まっていたところ、東京・用賀でカスタムバイクを制作し「筑波バトルオブザツイン(B.O.T.T)」に参戦しているショップ「スコードロン」の社長が新垣に「うちのバイクでB.O.T.Tに参戦しないか?」と声をかけたことが転機となる。ヤマハ・SRX400で初めて筑波サーキットを走行した新垣は、ここで2位の好成績を出した。
全日本選手権参戦
1986年に全日本ロードレース選手権を管轄する日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)にライセンス登録をする。「スコードロン」とパーツの取引で繋がりのあったチームル・マンとの縁で、新垣は市販レーサーのヤマハ・TZ250を入手し、このマシンでノービス250ccに参戦を開始する。同年の鈴鹿4時間耐久レースにもホンダ・VFR400で参戦した。シーズンを終えると筑波選手権ノービス250ランキング2位を獲得し、この好成績によりノービスを卒業しジュニアライセンスへ昇格する。
1987年は全日本ロードレースジュニア250にTZ250、ジュニアTT F-IIIクラスにホンダ・NSR250Rでダブルエントリー。この年のジュニアには伊藤真一、岡田忠之、福智学、宮崎敦らのちのGPライダー・国際A級トップライダーとなる選手が属し、同期である[4]。同年の新垣は「ジュニアで筑波のラップタイム1分を切るライダーがいる」と話題になるなど、ロードレース界での知名度が上昇した[5]。F-IIIクラスでは年間5勝を挙げ、シリーズチャンピオンを獲得。この結果により1988年から国際A級に昇格する。
1990年にホンダワークス(HRC)入り、250ランキング6位を獲得。1991年は全日本250ランキング4位に入った。
世界選手権参戦
1992年、プライベータ―としてROCヤマハのマシンでロードレース世界選手権の最高峰クラスであるWGP500にフル参戦を果たす。ライダー1人・メカニック1人の最小体制での参戦だったが、第10戦フランスGPと第11戦イギリスGPで10位に入賞しポイントを獲得する。このフル参戦は「プライベーターでないと分からない苦しいこともあるけど、お金には代えられないとても貴重な経験の数々だった。来年続けないわけにいかないな、っていう思いです。毎日スポンサー獲得のために企画書もって歩き回っています。」と充実感を述べている[6]。
1995年の第3戦日本グランプリ(鈴鹿)は雨となったが、このレースではグランプリでのキャリアベストとなる8位でチェッカーを受けた。
1996年シーズン終盤には、とても小さいながらも伝統的にグランプリに参戦するイタリアの小チーム「パトン」のマシンに乗る機会もあった[7]。最終戦オーストラリアGPではパトンのマシンで15位に入り、貴重な1ポイントをもたらした(パトンにとって同年唯一のポイント獲得)。グランプリ参戦はこの1戦が最後となった。
WGP以外では、スーパーバイク世界選手権へのスポット参戦や、2001年3月にKENZ SUZUKIのデイトナ遠征のライダーとしてGSX-R1000でフォーミュラUSA・アンリミテッドスーパーバイクへの参戦歴を持つ[8]。
2000年代以後も全日本ロードレース、鈴鹿8時間耐久レースに参戦。2006年の全日本ロードレース選手権・ST600クラス第3戦ではヤマハ・YZF-R6で3位表彰台を獲得し、健在な技術を見せた[9]。
2024年現在『ライディングスクール虎の穴』で校長を務め、ライディングに関するコーチングをユーザーに提供、オートバイライフ向上に尽力する[10]。
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レース戦歴
ロードレース世界選手権
スーパーバイク世界選手権
全日本ロードレース選手権
- 太字はポールポジション、斜体はファステストラップ。
鈴鹿8時間耐久ロードレース
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関連作品
DVD
- WGPライダー新垣敏之のアドバンス ライディングDVD (2009年、内外出版社)
- 「曲がれる人」になるためのサスセッティング実践講座 (2013年2月、内外出版社)
脚注
外部リンク
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