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新宿区の町名

新宿区の町名一覧 ウィキペディアから

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新宿区の町名(しんじゅくくのちょうめい)とは、東京都新宿区に存在または過去に存在した町名のこと。

本項では、明治時代初期以来の区内の町名の変遷についての説明およびそれらを一覧化したものを記述する。

新宿区の前史と行政区画の移り変わり

要約
視点

東京都新宿区は、昭和22年(1947年3月15日、当時の東京都四谷区牛込区淀橋区が合併して成立した。以下、明治時代初期から新宿区成立までの行政区画の変遷について略述する。

江戸が「東京」と改称されたのは慶応4年(1868年)のことである。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、東京府が設置された(9月8日に明治と改元)。以後、明治22年(1889年)に東京市が発足するまでの過渡期には、東京府の行政区画はめまぐるしく変遷し、番組制、大区小区制、15区6郡制等と呼ばれる制度が相次いで実施された。

明治2年2月(1869年3月)、東京府では、町地と郷村部との境界線を定める朱引(しゅびき)が行われた。これは、皇居を中心とした市街地(江戸時代町奉行所支配地に相当)を朱引内とし、その外側を郷村とするもので、朱引内を50の区画に分けて、50番組(50区)が設定された。これとともに、江戸時代から続いていた名主制度が廃止された。同年5月、周囲の郷村部にも5つの組が設定され、これを地方5番組と称した。後に新宿区となる区域は、このうち朱引内の24番組から26番組、および地方1・2番組に属した。 明治4年6月(1871年7月)には朱引が見直されて、朱引内は44区、朱引外は25区(計69区)に区分された。明治4年7月(1871年8月)には廃藩置県が実施された。これにともない、同年11月(1872年1月)、従来の東京府、品川県小菅県が廃止され、新たな東京府が設置された。同時に朱引が廃止されて、府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りは再度見直され、朱引が復活。朱引内外に11大区・103小区が設置された。後に新宿区となる区域は、このうち朱引内の第3大区5・6・9 - 11小区、第4大区10・11小区、第8大区2 - 4小区に属した。

その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年11月2日、東京府下に15区6郡が置かれた。新宿区の前身にあたる3区のうち四谷区と牛込区はこの時設置された。明治22年(1889年)、市制町村制が施行され、同年5月1日、東京市が成立。四谷区と牛込区は東京市の区となった。大正9年(1920年)、豊多摩郡内藤新宿町が四谷区に編入された。

淀橋区は、昭和7年(1932年)、東京市が周辺の5郡82町村を編入し、いわゆる「大東京市」となった時に成立したもので、もとは豊多摩郡大久保町戸塚町落合町淀橋町であった。

昭和18年(1943年7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が置かれ、四谷区、牛込区、淀橋区を含む35区は東京都直轄の区となった。昭和22年(1947年)3月15日、前述のとおり、これら3区が合併して新宿区となった。

新宿区では、昭和40年(1965年)から住居表示が実施されているが、平成22年(2010年)現在、住居表示未実施の区域が多く残っている。ただし、旧四谷区の区域では、昭和18年(1943年)に大規模な町名町界整理が実施され、明治時代初期に存在した町名は大部分が失われている。

旧町名は、江戸時代以来の名称を引き継ぐものも多かったが、明治時代初期に新たに起立した町名も多かった。「○○屋敷」「○○町代地」「○○寺門前」といった、旧幕府時代の伝統を引き継ぐ小規模な町は、明治2年(1869年)前後に数か町が合併されて、新たな町名を付した例が多い。また、明治5年(1872年)には武家地、寺社地など、それまで町名のなかった土地に新たに町名を付した。こうした町名設置は、おもに戸籍整備上の必要性から実施されたものである。

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旧四谷区の町名

要約
視点
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旧四谷区の町名(1943年の町名整理前と後)

発足時の町名

明治11年(1878年)の四谷区成立時の町丁数は41であった。翌明治12年(1879年)、千駄ヶ谷大番町など千駄ヶ谷地区8ヶ町が四谷区から分離して南豊島郡千駄ヶ谷村と合併するが、当該区域の一部は10年後の明治22年(1889年)、千駄ヶ谷村から四谷区へ再編入されている。大正9年(1920年)、南豊島郡内藤新宿町が四谷区に編入され、区の領域が大幅に拡大された。以上のように四谷区の区域はたびたび変動している。また、昭和18年(1943年)に実施された町名改正により多くの旧町名が改廃されている(以上の変更の詳細は後述)。下表は区成立当初に存在した41町丁の一覧である。

冠称について

「四谷」を冠称する町名については、明治44年(1911年)5月1日に冠称を廃止している(例:四谷区四谷尾張町→四谷区尾張町)。同時に「鮫河橋」及び「元鮫河橋」を冠称する町名も冠称の廃止や町名変更が行われた(例:四谷区元鮫河橋町→四谷区元町)。

さらに見る 町名(1878年現在), 成立年 ...

四谷区成立以後、明治22年(1889年)の東京市制施行までの間には以下の変更があった。

  • 明治12年(1879年)、千駄ヶ谷一〜三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町の8町が四谷区から分離し、千駄ヶ谷村と合併する。なお、この時千駄ヶ谷村と合併した町域の一部は10年後の明治22年(1889年)、四谷区に再編入された。
  • 明治12年(1879年)、牛込区市ヶ谷七軒町を四谷区へ編入、四谷七軒町となる。
  • 明治13年(1880年)、麹町区麹町十一〜十三丁目を四谷区へ編入。
  • 明治13年(1880年)、牛込区市ヶ谷片町と市ヶ谷本村町(一部)を四谷区に編入、四谷片町及び本村町(冠称なし)となる。
  • 明治22年(1889年)、千駄ヶ谷村の一部(字大番町・西信濃町・甲賀町・池尻・霞岳・川向・火薬庫前)を再び四谷区へ編入。千駄ヶ谷地区の町・字の所属変更については複雑なので、以下に項を改めて述べる。

千駄ヶ谷地区の変遷

千駄ヶ谷地区は近世には豊島郡野方領千駄ヶ谷村と呼ばれたが、一部地区は近世から町地化して千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷大番町と称し、町奉行支配下にあった。千駄ヶ谷町は明治5年(1872年)に再編されて千駄ヶ谷一〜三丁目と改称。また、千駄ヶ谷村の一部から明治初年に千駄ヶ谷仲町一・二丁目、明治5年に千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷西信濃町が成立している。こうして、明治5年の時点では千駄ヶ谷村と千駄ヶ谷一〜三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目、千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷甲賀町、千駄ヶ谷西信濃町の1村8町が存在した。明治11年(1878年)の郡区町村制施行時には千駄ヶ谷村は南豊島郡に、千駄ヶ谷一〜三丁目以下8町は四谷区に、それぞれ属した。翌明治12年(1879年)、千駄ヶ谷一〜三丁目以下8町は四谷区から分離して千駄ヶ谷村と合併し、新しい千駄ヶ谷村となった。これに伴い千駄ヶ谷一〜三丁目、千駄ヶ谷仲町一・二丁目の町名は消滅、大番町、甲賀町、西信濃町は千駄ヶ谷村の字名となった。

明治22年(1889年)5月1日の市制町村制施行時、四谷区と南豊島郡の境界を再度変更。千駄ヶ谷村の7字(大番町・西信濃町・甲賀町・池尻・霞岳・川向・火薬庫前)が再度四谷区に編入され、同村の残余は原宿村、隠田村と合併して新たな千駄ヶ谷村となった(現・渋谷区のうち)。明治22年に千駄ヶ谷村から四谷区に再編入された7字は大部分が陸軍練兵場敷地で、明治11年時点の千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷大番町、千駄ヶ谷西信濃町、千駄ヶ谷甲賀町に相当する。明治24年(1891年)3月18日、字霞岳・川向・甲賀町の区域をもって四谷霞岳町が成立、字西信濃町・火薬庫前の区域をもって四谷西信濃町が成立、字大番町・池尻は四谷大番町に編入された。これらは現行の霞ヶ丘町、信濃町(西部)、大京町(南部)にあたる。なお、明治11年時点の千駄ヶ谷二・三丁目および千駄ヶ谷仲町一・二丁目に該当する区域は千駄ヶ谷村のうちにとどまり、現行の渋谷区千駄ヶ谷一〜六丁目、代々木一丁目などになっている。[1]

以下は、四谷区成立以後、明治24年(1891年)までに隣接の区・町・村からの編入により成立した町である。これら9町の成立により、四谷区の町丁数は差引42となった。

さらに見る 町名(1891年現在), 成立年 ...

内藤新宿町

内藤新宿は甲州街道の宿駅で、西から東へ上町、仲町、下町があった。明治2年(1869年)、上町、仲町、下町はそれぞれ内藤新宿三丁目、二丁目、一丁目と改称。同年には他に内藤新宿北町、内藤新宿番衆町、内藤新宿北裏町、内藤新宿南町、内藤新宿添地町が成立した。明治22年(1889年)の市制町村制施行時、これら8町(内藤新宿添地町の飛地を除く)は合併して南豊島郡内藤新宿町となり、8町は内藤新宿町の大字となった。同時に内藤新宿添地町の飛地が南豊島郡淀橋町大字角筈に編入された。

明治24年(1891年)、内藤新宿一丁目の一部(字大木戸)が四谷区に編入され四谷内藤町となり、同時に添地町の飛地が四谷永住町に編入となった。

大正9年(1920年)、南豊島郡内藤新宿町は四谷区に編入された。内藤新宿町の8大字は新宿一・二・三丁目、旭町、番衆町、三光町、花園町の7町に編成され、内藤新宿一丁目の一部は内藤町に編入された。内藤新宿町編入時に成立した7町は以下のとおり。

さらに見る 町名(1920年現在), 成立年 ...

1943年の町名・町界整理

1943年、四谷区北部の坂町・舟町・愛住町及び新宿地区を除くほぼ全域で大規模な町名及び町界整理が実施され、これに伴い江戸期以来の町名が多数消滅し現在まで続く町域・町名となった。

さらに見る 町名整理後, 町名整理前 ...


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旧牛込区の町名

要約
視点

発足時の町名

牛込区には明治11年(1878年)の区成立の時点では79か町が存在した(「一丁目」「二丁目」等はそれぞれを1町と数える)。区成立以降、東京市成立(明治22年・1889年)までの主な変更は以下のとおりである。

  • 牛込早稲田北町 - 明治5年(1872年)成立、明治12年(1879年)牛込早稲田町へ編入。
  • 牛込三十人町 - 明治6年(1873年)一部を若松町へ編入。残余は明治12年(1879年)牛込原町三丁目へ編入。
  • 新小川町一〜三丁目 - 明治13年(1880年)小石川区から牛込区へ編入。
  • 市ヶ谷七軒町 - 明治12年(1879年)四谷区へ編入、四谷七軒町に改称。
  • 市ヶ谷片町 - 明治13年(1880年)四谷区へ編入、四谷片町に改称。
  • 市ヶ谷田町四丁目 - 明治14年(1881年)市ヶ谷本村町へ編入。
  • 早稲田村 - 明治22年(1889年)牛込区へ編入。明治24年(1891年)早稲田鶴巻町に改称。

以上により、明治24年(1891年)時点での牛込区内の町丁数は差引78であった。下表には河岸地名1所(神楽河岸)を含む79か町を収録した。

旧牛込区の地域では、震災復興に伴う町名改正は実施されず、住居表示に関する法律に基づく住居表示の整備も昭和50年(1975年)までが実施されていなかった。同年以降、一部地域で住居表示が実施されているが、新町名・町域の設定に際しては基本的に従前の町名が継承されている。

冠称について

「牛込」及び「大久保」を冠称する町名については、明治44年(1911年)5月1日に冠称が廃止され(例:牛込区牛込白銀町→牛込区白銀町)、「市ヶ谷」は「市谷」へ変更された。また、一部町名の簡素化も実施されている(例:市ヶ谷薬王寺前町→市谷薬王寺町)。

さらに見る 町名(1891年現在), 成立年 ...
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旧淀橋区の町名

要約
視点

新宿区の前身3区のうち、四谷区と牛込区は明治11年(1878年)、郡区町村編制法施行時の成立であるが、淀橋区はそれから半世紀以上後の昭和7年(1932年)、東京市域拡大時に新設された20区のうちの1つである。淀橋区が存続したのは昭和22年(1947年)までの15年間のみであった。

旧町村名

淀橋区の区域は近世には豊島郡野方領のうちで、東大久保村、西大久保村、上落合村、下落合村、葛ヶ谷村(くずがやむら)、柏木村、角筈村(つのはずむら)、戸塚村、下戸塚村、源兵衛村、諏訪村、東大久保砂利取場跡新田、大久保新田などの村があった。柏木村のうち青梅街道沿いの地区は早くから町地化し、柏木成子町、柏木淀橋町と称して町奉行管轄地となっていた。これらの町村は幕末から明治時代にかけて以下のような経過をたどっている。

  • 幕末(正確な時期不明) - 大久保新田が消滅(戸塚村のうち)。
  • 幕末(正確な時期不明) - 柏木成子町、柏木淀橋町は柏木村の字(あざ)となる(現行の西新宿五・六・八丁目、北新宿二丁目付近)。
  • 明治元年(1868年) - 戸塚村、下戸塚村、源兵衛村は東京府に所属。その他の村は武蔵知県事の支配を経て明治2年(1869年)品川県に所属。
  • 明治4年(1871年) - 品川県が廃止され、あらためて東京府を設置。品川県に属していた東大久保村、西大久保村、上落合村、下落合村、葛ヶ谷村、柏木村、角筈村、諏訪村、東大久保砂利取場跡新田は東京府所属となる。
  • 明治6年(1873年) - 東大久保砂利取場跡新田を東大久保村に編入。同新田はその名のとおり近世には砂利取り場だったところで、現行の新宿七丁目付近にあたる。
  • 明治7年(1874年) - 東大久保村の一部が東大久保町として分離する。ただし、明治12年(1879円)、再び東大久保村に編入され、同村の字東大久保町となる。同町は現行の新宿五・六丁目付近にあたる。
  • 明治7年(1874年) - 大久保百人町が成立。当地は西大久保村の西に位置し、近世には大久保百人組大縄屋敷、百人組大縄給地、百人組同心大縄地などと称された同心屋敷地であった。百人組とは、江戸城と将軍の警備を担当していた鉄砲百人組のことである。

明治11年(1878年)、郡区町村編制法施行に伴い、当地区は南豊島郡のうちとなる。明治22年(1889年)市制町村制施行に伴い、町村の廃置分合が実施され、新たに南豊島郡戸塚村落合村大久保村淀橋町が成立。これら1町3村の区域が後の淀橋区になった。なお、明治29年(1896年)には南豊島郡東多摩郡を統合して豊多摩郡となり、上記1町3村は同郡の所属となった。該当地区の新旧の町村名は以下のとおりである。

  • 戸塚村 - (旧)戸塚村、下戸塚村[3]、源兵衛村、諏訪村、西大久保村飛地、高田村飛地
  • 落合村 - 上落合村、下落合村[4]、葛ヶ谷村
  • 大久保村 - 東大久保村、西大久保村、大久保百人町、諏訪村飛地
  • 淀橋町 - 角筈村、柏木村、内藤新宿添地町飛地

上記1町3村のうち、大久保村は大正元年(1912年)、戸塚村は大正3年(1914年)、落合村は大正13年(1924年)に町制を施行し、大久保町、戸塚町、落合町となった。昭和7年(1932年)、大久保町、戸塚町、落合町、淀橋町の区域をもって淀橋区が設置され、同区は昭和22年(1947年)の新宿区成立までの期間、存続した。

さらに見る 町村名・大字名, 小字名 ...

淀橋区成立時の町名

昭和7年(1932年)の淀橋区成立時の区内の町名は下表のとおりであった。

さらに見る 淀橋区町名(1932年), 直前町名 ...

歌舞伎町

歌舞伎町は新宿区成立後の昭和23年(1948年)に角筈一丁目、東大久保三丁目の各一部をもって新設された。昭和53年(1978年)、当地区の住居表示実施の際に歌舞伎町の町域は拡大され、旧歌舞伎町の全部と三光町の一部、百人町一丁目の一部、新宿三丁目の一部(道路敷のみ)、柏木一丁目の一部(鉄道用地のみ)、角筈一・二丁目の一部(1970~73年の住居表示実施後の残余。二丁目に関しては鉄道用地のみ)を合わせた区域が歌舞伎町一丁目となり、西大久保一丁目の大部分が歌舞伎町二丁目となった。

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現行行政町名

要約
視点
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新宿区内住居表示新旧町名対象図

以下は新宿区の現行町名(2012年2月現在)である。住居表示実施済み地区については、当該住居表示実施直前の旧町名を記載した。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。なお、各特別出張所の範囲は大まかなものであり、多くの町名は番地によって複数の特別出張所管内に分割されることもある[5]

新宿区では1965年以降住居表示が実施されている。区発行『新宿区の概況』平成22年版所収の「住居表示実施状況」によると、2009年に片町の住居表示が実施された段階で、新宿区の住居表示実施率は区面積の74.7パーセントとなっている。[6]

当区における住居表示は、1982年実施分以降は、従前の町名町界を継承する形で実施されている。一例として、1990年5月15日に住居表示を実施した市谷甲良町など6か町の場合は、境界の道路部分の微調整のみで、基本的に従前の町名町界が継承されている。[7]

早稲田鶴巻町、山吹町では土地区画整理事業の換地処分に伴い1982年10月31日に地番が変更されているが、住居表示は未実施である。[8]

町名の読み(「まち」「ちょう」の区別含む)については、『角川日本地名大辞典 東京都』のほか以下の資料によった。

  • 日本郵便公式サイトの郵便番号一覧
  • 新宿区公式サイト「住居表示実施・未実施地域」
さらに見る 町名, 町名読み ...
新宿区役所区民課管内(9町丁)
さらに見る 町名, 町名の読み ...
榎町特別出張所管内(20町丁)
さらに見る 町名, 町名の読み ...
大久保特別出張所管内(11町丁)
    さらに見る 町名, 町名の読み ...
    落合第一特別出張所管内(8町丁)
    さらに見る 町名, 町名の読み ...
    落合第二特別出張所管内(9町丁)
      さらに見る 町名, 町名の読み ...
      柏木特別出張所管内(7町丁)
        さらに見る 町名, 町名の読み ...
        箪笥町特別出張所管内(45町丁)
          さらに見る 町名, 町名の読み ...
          角筈特別出張所管内(5町丁)
            さらに見る 町名, 町名の読み ...
            戸塚特別出張所管内(7町丁)
              さらに見る 町名, 町名の読み ...
              四谷特別出張所管内(24町丁)
                さらに見る 町名, 町名の読み ...
                若松町特別出張所管内(8町丁)


                  出典

                  『角川日本地名大辞典 東京都』刊行後の住居表示実施については、以下による。

                  • 1978年2月1日・7月1日実施分 - 新宿区教育委員会編・刊行『地図でみる新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』、1984
                  • 1982年7月5日実施分 - 『新宿区広報』昭和56年12月15日号
                  • 1983年8月1日実施分 - 『新宿区広報』昭和57年8月5日号
                  • 1984年11月5日実施分 - 『新宿区広報』昭和58年9月5日号、59年1月15日号
                  • 1986年2月24日実施分 - 『新宿区広報』昭和60年7月25日号、60年10月15日号
                  • 1988年2月15日実施分 - 『新宿区広報』昭和62年8月5日号
                  • 1989年11月6日実施分 - 『新宿区広報』平成元年4月15日号
                  • 1990年11月5日実施分 - 『新宿区広報』平成2年5月15日号
                  • 2002年4月1日実施分 - 『広報しんじゅく』平成13年10月25日号
                  • 2003年9月29日実施分 - 『広報しんじゅく』平成15年2月25日号
                  • 2009年2月16日実施分 - 『広報しんじゅく』平成21年1月15日
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                  脚注

                  参考文献

                  関連項目

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