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曲壽郎
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曲 壽郎(まがり としろう、1917年〈大正6年〉2月15日 - 2012年〈平成24年〉12月12日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、簡易裁判所判事、弁護士。
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略歴
佐世保中学、東京陸軍幼年学校[5]・陸士予科を経て、1937年(昭和12年)12月に陸軍士官学校(50期)を首席で卒業して恩賜の銀時計を拝受した[1][2][6]。翌年1月、陸軍砲兵少尉に任官した。
1939年(昭和14年)、ノモンハン事件に野戦重砲兵第1連隊中隊長として出征した[7]。
1941年(昭和16年)7月、陸軍科学学校(陸軍砲工学校を改称)高等科(45期)を優等卒業して恩賜の軍刀を拝受し[3]、陸軍大学校卒業者と同等に処遇される資格を得た。
→詳細は「陸軍大学校 § 陸大卒業者と同等に扱われた者」を参照
さらに、太平洋戦争(大東亜戦争)たけなわの1944年(昭和19年)7月、陸軍大学校(58期)を卒業した。
終戦は支那派遣軍参謀(陸軍少佐)として上海で迎えた[7]。戦後は復員業務に従事したのち、GHQの歴史課に席を置き、日本敗戦史の編集に携わった[7]。
1951年(昭和26年)10月1日付で警察予備隊に3等警察正(陸軍少佐に相当)として入隊したが[8]、司法試験にも同年12月5日付で合格していた[9]。
保安隊時代の1954年(昭和29年)4月、第一幕僚監部勤務の2等保安正(現・2等陸佐)の時に初の防衛駐在官としてワシントンに赴任した[10]。
陸上自衛隊では第12師団長、防衛大学校幹事、陸上幕僚副長等を歴任し、1973年(昭和48年)2月に第11代陸上幕僚長に就任。陸幕長を1年余り努め、1974年(昭和49年)7月1日付で退官[11]。
退官後は、天下りすることなく[12]、簡易裁判所判事(1975年〈昭和50年〉4月1日[13]-1985年〈昭和60年〉3月31日[14][注釈 1])、次いで弁護士(1985年〈昭和60年〉5月8日 登録、第一東京弁護士会[16])を務めた[8]。
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年譜
- 1937年(昭和12年)12月[8]、陸軍士官学校第50期[1]を首席[2]/426名で卒業し、恩賜の銀時計を拝受[6]。
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 7月:野戦重砲兵第1連隊中隊長
- 1940年(昭和15年)
- 陸軍砲工学校普通科 入校
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)12月:陸軍大学校入校
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)8月:支那派遣軍参謀
- 1947年(昭和22年)5月:復員
- GHQ歴史課勤務。
- 1951年(昭和26年)10月1日:警察予備隊に入隊(3等警察正)[18]
- 1954年(昭和29年)
- 1959年(昭和34年)
- 1963年(昭和38年)8月1日:第4特科群長兼上富良野駐とん地司令
- 1964年(昭和39年)7月16日:防衛研修所所員
- 1966年(昭和41年)
- 1月1日:陸将補に昇任
- 7月16日:統合幕僚会議事務局第1幕僚室長
- 11月16日:同第3幕僚室長
- 1968年(昭和43年)3月16日:陸上幕僚監部第3部長
- 1969年(昭和44年)7月1日:陸将に昇任、第12師団長に就任
- 1971年(昭和46年)3月16日:防衛大学校幹事に就任
- 1972年(昭和47年)3月16日:陸上幕僚副長に就任
- 1973年(昭和48年)2月1日:第11代陸上幕僚長に就任
- 1974年(昭和49年)7月1日:退官
- 1975年(昭和50年)4月1日:東京簡易裁判所判事[19]
- 1985年(昭和60年)
- 3月:任期終了退官
- 5月:弁護士登録
- 1987年(昭和62年)4月29日:勲二等瑞宝章受章[20]
- 2012年(平成24年)12月12日:心不全のため東京都世田谷区の病院で死去(95歳没)。[21]叙・正四位(従六位から進階)[22]
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栄典
勲二等瑞宝章 - 1987年(昭和62年)4月29日
脚注
参考文献
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