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木梨信一

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木梨 信一(きなし しんいち、1840年10月6日(天保11年9月11日[1])- 1900年明治33年)12月22日[2][3])は、幕末長州藩士、明治期の官僚政治家衆議院議員(1期)。初名・平之進、平之允[1]。1869年(明治2年)藩命で信一に改名[1][4]。別名・信、進一[1]

経歴

長門国阿武郡萩城下下土原浮島[1](現山口県萩市[5])で、長州藩大組士・木梨求馬の息子として生まれた[1]。1853年(嘉永6年)家督を相続[1]藩校明倫館で学ぶ[1]松下村塾でも学んだ[1]。1859年3月13日(安政6年2月9日)銃陣練習員に選抜され長崎で陸軍直伝習(小隊操練)を受けた[6]。安政6年8月、西洋学所・博習堂の設立に伴い陸軍専修入込生となる[6]。その後、江戸に出て有備館で学んだ[6]。この頃から体調不良で、終生、大病を繰り返し、軍事の最前線に出ることはなかった[6]

1863年3月2日(文久3年1月13日)阿武郡一手教授方助役に就任。以後、御前詰警備、他所人応接懸り、御使番、干城隊御用掛、奥阿武郡都合役、阿武郡代官役を歴任[4]四境戦争では津和野藩への使者を務めた[4]。参政試補、参政、権参事を務め[2][4]、1870年6月(明治3年5月)病のため依願免官[4]。同月木戸孝允の帰京に随行し[4]、同年12月23日(11月2日)財政研究のため渡米する伊藤博文の随員として横浜港から出航し[7]、1871年7月26日(明治4年6月9日)に帰国した[7]

1871年(明治4年7月山口藩少参事となり[7]、同年11月山口県が発足すると七等出仕に任官[7]地租改正を担った[7]。1873年(明治6年)4月、正院に転じ7等出仕となり[8]左院7等出仕、5等議官を歴任したが[8]、山口県内の不平士族への対応のため1874年(明治7年)5月、山口県参事に転じた[8]。その後、6等判事兼任となり[8]萩の乱などへの対応に尽力[8]。1877年(明治10年)7月、大書記官に就任したが[8]、1878年(明治11年)5月に退官した[8]

1878年(明治11年)11月、設立免許を得て第百十国立銀行が発足し[9]、1881年(明治14年)7月、同行取締役となり[10]、1890年(明治23年)1月、第3代頭取に就任し[2]、終生在任した[10]

1890年7月の第1回衆議院議員総選挙(山口県第1区、無所属)で落選したが[11]、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(山口県第1区、無所属)で当選し[12]、議員倶楽部に所属して衆議院議員を1期務め[2]1894年(明治27年)の第3回総選挙には出馬しなかった。

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親族

脚注

参考文献

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