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大通公園

北海道札幌市中央区にある公園 ウィキペディアから

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大通公園(おおどおりこうえん)は、札幌市中央区大通西にある公園。「日本の道100選」「日本の都市公園100選」「都市景観100選」「日本の歴史公園100選」選定[3][4][5]。札幌のランドマークである「さっぽろテレビ塔」は大通公園内に位置している。大通公園を中心としたエリアは札幌市の中心市街地を形成しており、同公園周辺は、通称「大通」と呼ばれる[6][7]

概要 大通公園 Odori Park, 分類 ...
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概要

札幌市中心部に位置し、東西約1.5 km、面積約7.8 haの特殊公園である[8]。幅105 m、6車線の都市計画道路3・1・2「大通」の一部になっているほか[9]、札幌市の「風致地区」「景観計画重点区域」に指定されている[10][11]芝生花壇を整備しており、ライラックハルニレケヤキをはじめとした92種、約4,700本の樹木がある[12]。また、各種イベント(『さっぽろ雪まつり』『さっぽろライラックまつり』『YOSAKOIソーラン祭り』『さっぽろ夏まつり』『さっぽろオータムフェスト』『さっぽろホワイトイルミネーション』など)が開催されている。札幌市を代表するメインストリートである。

1993年には市道の一部の廃止により西8丁目と西9丁目間が連続化した[13]

2016年に札幌市は大通公園を創成川を越えて東側に約100メートル延伸する方針を発表した。延伸を予定する中央区大通東1丁目の区画内で、市道と北海道電力(北電)本店などがある民有地を交換し、公園用地を取得する。併せて、北電などが今後進める再開発事業を支援し、創成川を挟んで東西両側の一体的な活性化を目指す[14]

2022年3月23日、札幌市は国道の通る西3丁目と西4丁目間(札幌駅前通)及び西10丁目と西11丁目間(石山通)以外の公園区画の間を通る市道9路線の一部を廃止し、公園区画をつなげて面積を広げる方針を明らかにした[13]

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地域名「大通」

同公園及び札幌市営地下鉄大通駅を中心とした地域の通称であり、行政上の地名ではない。札幌市の都心及び中心業務地区(CBD)である。大通駅は地下鉄が3路線(東西線南北線東豊線)乗り入れるジャンクションであり、地下鉄が3路線乗り入れるのは東京・大阪を除くと、この駅が全国唯一である。

東西に伸びる大通公園を境に、北側が北海道庁札幌市役所札幌駅などの公的機関やオフィスビルが位置する官公庁街・オフィス街、南側がデパート、大型商業施設、商店街飲食店などが集積する繁華街となっている。さらに南側には一大歓楽街すすきの」が位置している。大通公園は南側の繁華街や歓楽街の火災が北側の官公庁街に延焼することを防ぐ火防線の役割を担っており、北側と南側で街の役割や景観が大きく異なる[15]。また、地下鉄3路線が乗り入れる大通駅を中心として、ポールタウン札幌駅前通地下歩行空間(チ・カ・ホ)といった地下街地下道も発達しており、すすきの駅札幌駅さっぽろ駅へ地上を経由せずに地下のみでアクセスが可能である。

札幌駅再開発郊外ショッピングモールの開業など、商業地区としての大通地区の相対的地位は低下しつつある[16]2003年に札幌駅の駅ビルとして開業したJRタワーの影響は大きく、JRタワーの核テナント大丸札幌店大丸松坂屋百貨店)は、2010年に大通地区の丸井今井札幌本店の売上高を抜いて、道内一番店の百貨店の座を奪った[17][18]

北側

南側

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歴史

要約
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1936年の大通公園

1869年明治2年)、開拓使は判官の島義勇に札幌本府建設を命じ[19]、島は現在の南1条通と江戸時代に大友亀太郎が掘削した大友堀(現在の創成川)が交差する地点をまちづくりの基点(現在の創成橋付近)にした[20][21]。ところが、本府建設には多額の費用が必要であり、経費の追加を求めた島は開拓長官の東久世通禧によって罷免されてしまい、本府建設も一時中止となる[22][23]。1871年(明治4年)、岩村通俊が開拓判官になると島の構想をもとに街の東西に幅60間(実際は58間、105 m)の火防線を設けてそれより北を官地、南を民地として格子状の区画整理を行っていった[24][25][26]1872年(明治5年)に北海道内の国郡名を札幌本府の道路に付けて火防線は後志通、現在の北1条通は浜益通、現在の南1条通は渡島通となったが、煩雑であったため1881年(明治14年)に現在の条・丁目に変更されて後志通は大通となった[27][24]。1876年(明治9年)頃に現在の西3・4丁目に札幌官園で育てた花卉を植えた大通花草園を設置しており、大通の多目的利用が始まっている[28][29]。また、西10丁目に屯田兵第一大隊本部を設け、以西を練兵場とした[30]。なお、西9丁目辺りは森として残され、遠くから見ると高く盛り上がった部分と低くなっている部分がクジラのように見えたことから鯨森(鯨ヶ森、鯨の森)と呼ばれるようになった[30][31][32]。1878年(明治11年)には『第1回農業仮博覧会』を開催、以後隔年で開いていたが手狭になっていったため1887年(明治20年)に会場を中島遊園地(現在の中島公園)へ移した[28][33]。1880年(明治13年)に現在の札幌市民ホールNHK札幌放送局のある一角に西洋館豊平館を建設し、皇族や貴族、政府高官の宿泊施設や各種集会や宴会の場として利用した[34]。当時、西4丁目以西は荒地になっていたが、1888年(明治21年)に近辺学校の連合運動会を行ったことをきっかけに運動場として利用するようになった[35]。1899年(明治32年)には偕楽園にあった開拓記念碑を大通西6丁目に移設し、小公園にしている[36]

1907年(明治40年)、札幌興農園の小川二郎が札幌農学校(現在の北海道大学)で得た知識と技術を活かし、西2丁目から西4丁目にかけてを自費で花壇を造成した[36][37]。1908年(明治41年)、鯨森や練兵場跡地を含む西9・10丁目を逍遥地(散策する場所)として整備した[30]。1909年(明治42年)に造園技師の長岡安平を招き3ヵ年計画で本格的な公園整備を行い、西3丁目から西7丁目までが逍遥地となった[27]。1915年(大正4年)から札幌洋翠園の戸部佶が自費で花壇づくりを行い[38][37]、1918年(大正7年)に札幌区が引き継いだ[38][12]。1923年(大正12年)には宮部金吾達の指導により練兵場跡地の西10丁目から12丁目にかけても植栽と芝生を整備した[39][40]。1926年(大正15年)には西13丁目に札幌控訴院(現在の札幌市資料館)の建物が完成している[39][40]太平洋戦争中の大通は空襲に備えた避難広場として重視され[41]、1944年(昭和19年)になると食糧不足から10,000坪が畑に転用され[39][41]、ゴミ捨て場や雪捨て場となって荒廃した[42]。戦後は進駐軍に接収されて西3丁目に教会、西4丁目に野球場、西5丁目にテニスコートが造られ[39]、市民の手によって西6丁目にバレーボールコート、西7丁目に野球場、西8丁目に児童遊戯場を設けて運動場と化した[39]

1950年(昭和25年)から5ヵ年計画で芝生や花壇のある公園への復旧を始め[43]、翌年に北海タイムス社(現在の北海道新聞社)が北大植物園の石田文三郎の助言を基に園芸店などの協力を得て西3丁目に花壇を復活させた[12][44]。公園の復旧は進駐軍の真駒内(キャンプ・クロフォード)移転後に本格化していく[43][44]。1952年(昭和27年)から市内の花卉園芸業者がボランティアによる花壇造成を行い[44]、1954年(昭和29年)に札幌市花壇推進組合を結成して『大通花壇コンクール』が始まった[45]。1957年(昭和32年)には豊平館を中島公園へ移築し、さっぽろテレビ塔が完成[43]。1968年(昭和43年)に西1・2丁目のバスターミナルを移転して芝生や花壇を整備して西4・7・11丁目に噴水を設置するなど、現在へと続く大通公園になっていく[43]。1980年(昭和55年)に「都市公園法」に基づく公園として告示され、名実ともに大通公園となった[43]。1989年(平成元年)からは6ヵ年かけて大通地区の再整備事業の一環として大通公園全体の連続性と数丁目単位での連携性や丁目毎の個性化を図るとともに、植物の生育環境改善や園路や広場のデザイン化とバリアフリー化などを進め、1993年(平成5年)には西8・9丁目が連続化した[46]。2011年(平成23年)に本格的な公園整備から100周年を迎えた[47][48]

年表

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施設

要約
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1988年(昭和63年)の「第3次札幌市長期総合計画」策定に伴い、大通整備関連三事業の1つとして大通公園リフレッシュ事業を実施し、公園全体を5つのゾーン(国際交流ゾーン、水と光のゾーン、遊び・イベントゾーン、歴史・文化ゾーン、サンクガーデンゾーン)に分けて再整備している[69]。大通公園の範囲は西1丁目の西半分から西12丁目までであり、さっぽろテレビ塔や西13丁目の札幌市資料館は含まれていない(資料館の区域は札幌市教育委員会の管轄)[70]

〈大通〉一方通行 →









13 12 11

10 9 8 7



6 5



4



3



2



1
← 一方通行〈大通〉

交流 西1・2丁目(国際交流ゾーン)

オアシス 西3・4・5丁目(水と光のゾーン)

  • 湖風の像
  • 牧童の像
    • 峯孝作。
  • 石川啄木歌碑
  • 泉の像
  • 西3丁目噴水
    • 通水期間は4月下旬から10月下旬。
  • 吉井勇歌碑
    • 小谷博貞作。
  • 西4丁目噴水
    • 通水期間は4月下旬から10月下旬。
  • 日本の道100選の石碑
  • 聖恩碑
    • 明治・大正・昭和の歴代天皇の業績をたたえる碑として建立。「聖恩無疆」の題字は閑院宮載仁親王によるもの[74]。また、札幌市水道事業完成記念事業の一環として、周囲の池と四隅にジョン・クラレス・カッターの寄付を基金として設けられた水飲み場がある[74]
  • 観光インフォメーションセンター
    • 営業期間4月下旬から10月下旬。

つどい 西6・7・8・9丁目(遊び・イベントゾーン)

  • 日時計
  • 開拓紀念碑
    • 1899年(明治32年)に偕楽園から移設[75]。碑石は本願寺道路開削時に掘り出されたもので、題字は榎本武揚によるもの[75]と従来は言われたが、2007年以降、王羲之の書とされている[76]
  • 奉仕の道像
    • 峯孝作。
  • インフォメーションセンター&オフィシャルショップ
  • 漁民の像
    • 田畑一作作。
  • 西7丁目噴水
    • 通水期間は6月上旬から9月下旬。
  • 集団帰国記念碑
  • ブラック・スライド・マントラ
    • イサム・ノグチ作。マイアミにある白い「スライド・マントラ」の姉妹版。当初は西9丁目のクジラ山と呼ばれている滑り台を撤去して設置する予定であったが、現地を視察したノグチが子供たちと一緒になってクジラ山を楽しみ、滑り台を残すことにした[46]。また、ノグチは8丁目と9丁目の間の道路に立って「ここがいいね」と述べたという[77]。ノグチの急逝後、札幌市は一旦公園内にブラック・スライド・マントラを設置したが、故人の意思を尊重しようという考えから西8丁目と西9丁目の連続化に踏み切り、ノグチの指示通りの場所に移設した[78]。ノグチは「この作品は子どもたちのお尻によって磨かれる」と述べている[78]
  • 有島武郎文学碑
    • 藤川基作。
  • 公園管理事務所
  • 野外ステージ
    • 1985年(昭和60年)完成。
  • プレイスロープ(通称クジラ山)
    • 白い滑り台であり、ブラック・スライド・マントラと好対照を成している[78]
  • 遊水路
    • 通水期間は6月上旬から9月下旬。

フロンティア 西10・11丁目(歴史・文化ゾーン)

  • 黒田清隆の像
  • ホーレス・ケプロンの像
  • マイバウム
    • 姉妹都市ミュンヘンから贈呈された[79]。1976年(昭和51年)設置、2001年(平成13年)復元[80]
  • 西11丁目噴水
    • 通水期間は6月上旬から9月下旬。
  • オリンピックシンボルマークのモニュメント(11丁目)

花 西12丁目(サンクガーデンゾーン)、資料館

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イベント

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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