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松浦篤信

江戸時代中期の大名。平戸藩第6代藩主 ウィキペディアから

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松浦 篤信(まつら あつのぶ)は、江戸時代中期の大名肥前平戸藩の第6代藩主。官位従五位下肥前守

概要 凡例松浦 篤信, 時代 ...
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略歴

第4代藩主・松浦鎮信(天祥)の四男。母は岡氏。正室は稲葉正則の娘。側室は池内氏、松村氏、小宮氏、伊藤氏。子に松浦有信(長男)、松浦誠信(次男)、松浦交信(五男)、松浦到(六男)、松浦雅信(九男)、松浦義信(十男)、松浦信桯(十一男)、娘(牧野貞通正室)、娘(朝倉豊良室)、娘(本多忠如正室)、娘(篤信の弟・松浦斉の養女)。

江戸浅草に生まれる。幼名は数馬。元禄9年(1696年)4月6日、兄で5代藩主であった松浦棟の長男・が早くに死去したため、棟の養嗣子となった。同年5月21日、5代将軍・徳川綱吉に拝謁した。元禄11年8月22日、江戸城の菊間詰めとなる。同年12月15日、従五位下・肥前守に叙任する。宝永元年(1704年)5月28日、養父・棟と共に初めてお国入りする許可を得る。宝永6年4月28日、養父・棟と共に江戸城の柳間詰めに戻される。

正徳3年(1713年)2月11日、養父・棟の隠居により、家督を相続する。藩政においては「田畑割御定法」を制定して農村再編を図り、さらに向後崎番所を設置するなどして藩政改革を図ったが、あまり効果はなかった。棟と違って11男8女という子女に恵まれている。享保12年(1727年)閏1月2日、病気を理由に家督を長男の有信に譲って隠居した。宝暦6年(1756年12月3日に74歳で死去した。法号は松英院殿。墓所は墨田区天祥寺。後に平戸市雄香寺に改葬された。

明治天皇は7世孫である[1]

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系譜

子女は11男8女

脚注

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