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松浦輝夫

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松浦 輝夫(まつうら てるお、1934年昭和9年〉 - 2015年平成27年〉11月6日[1][2])は、日本登山家大阪府大阪市出身[3]1970年植村直己とともに、日本人として初めて世界最高峰エベレスト登頂に成功した[3][4]

経歴

大阪府大阪市出身[3][5]西野田工業高校[5]時代はラグビー選手であった[6]が、「山に登りたい一心で[6]」、1953年早稲田大学教育学部に進学し[5][6]1957年に卒業した[3]。卒業後は大阪市西区にある実家の松浦木材に入社した[7][8]

1965年ヒマラヤ標高8,383m[9]ローツェ・シャール峰に挑戦した早稲田大学隊に参加し、松浦は当時の日本人最高到達高度である8,180mを記録した[9]が、食料と酸素の残量が乏しかったため、遭難者をださないことを主眼として、やむなく登頂を断念した[9]

1970年、36歳のときに[4]日本山岳会エベレスト登山隊(総隊長・松方三郎登攀隊長・大塚博美)に参加し、東南稜ルートのリーダーを務め、5月11日に当時29歳の植村直己とともに、日本人初のエベレスト登頂に成功した[3][4]。この功績に対して秩父宮記念賞を受賞した[3]

1981年、早稲田大学K2登山隊の隊長を務め、8月7日、2隊員[注 1]の西稜ルートから標高8,611mのK2初登頂を成功させた[10][3]

その後は、本格的登山から退き[注 2]、本格的に家業の経営にあたるようになった[12]1980年代には、所有している賃貸住宅に「ハイムK2」、エベレストの標高にちなんだ「ハイム8848」[注 3]という名称を付けている[13]

1991年屋久島に単身で移住し、本格的に陶芸に打ち込む[12][11][注 4]。当地で陶芸作品を観光客に販売するなどして得た資金で、ネパール学校奨学金を送る活動を行った[12][15][14]2001年大阪市に戻った[11]

2015年2月白血病となり[7]11月6日に白血病と肺炎のため死去した[1][5]。81歳没、享年82[1][5]

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エピソード

  • 1965年ローツェ・シャール峰の遠征では、雪崩に遭った仲間を救出した後、残り少ない酸素、食料で頂上アタックを開始したが「山で遭難は絶対してはならない」との信念のもと、頂上まであとわずか200m弱のところで撤退することを決断した[16]
  • 1970年エベレストの第1次アタック隊に指名された際、同じくアタック隊に選ばれた植村直己に、「君はゴジュンバ・カン(チョー・オユーII峰)登頂の喜びを知っているが、おれには悔しさしかない。だから絶対にエベレストに登りたいんだ。とにかく這ってでも頂上に行こう」と決意を語った[17]
  • 1970年日本人初のエベレスト登頂に成功した際、植村直己は、エベレストの頂上に達する直前で、先輩である松浦に道を譲り、松浦を先に頂上に立たせようとした[12][15]が、これに対して松浦は、植村と肩を組んで2人同時に頂上に立った [18][19][20]
  • エベレスト登頂を伝える新聞は、「タフで子ぼんのう」、「登山と仕事、それにマイホームをうまく使い分けるマジメ型」と松浦を評した[21][注 5]
  • エベレスト登頂後、松浦は、サポートしてくれた隊員たちに感謝したうえで、「一番喜んでくれるのは3人の子供でしょう」と話した[4]
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関連書籍

  • 村井葵/著『幻想のヒマラヤ : ローツェ・シャール登山の記録』 冬樹社1969年4月15日全国書誌番号:73005271

脚注

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