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棚守房顕
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棚守 房顕(たなもり ふさあき)/野坂 房顕(のさか ふさあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、厳島神社の神官。厳島神社大宮の宝蔵を管理する棚守職を世襲する野坂氏の出身[4]だが、職名から「棚守房顕」の名で知られる。大内義隆や毛利元就らの御師となり、厳島神社の再興に尽力した[4]。
生涯
要約
視点
大内氏や陶氏の御師
明応4年(1495年)、野坂玄顕の子として誕生[3][4]。
大永3年(1523年)4月、厳島神社の神主職を巡って小方加賀守と争っていた友田興藤が武田光和らの支援によって厳島神社の神主と称し、桜尾城の大内軍を追い出し入城したため、8月には大内氏家臣の弘中武長が警固衆を率いて厳島に押し寄せ、友田衆を厳島から追放した[4]。この時房顕は大内氏に加勢し、以後大内氏との関係を深めて、大永4年(1524年)1月8日には陶興房の御師となった[4]。
大永8年(1528年)9月28日には興房から「房」の偏諱を与えられ、「房顕」と名乗る[注釈 1][4]。
さらに、陶氏だけでなく毛利氏や大内氏との関係も深め、天文9年(1540年)に毛利元就の御師となる。
天文10年(1541年)2月10日に大内氏の御師であった徳寿内侍が尼子氏に内通したとして罷免されると、房顕が大内氏の御師となり、長門国日置15石と西条段銭32貫の知行を与えられ、社家奉行に任じられた[4]。さらに神事田並びに社家三方(社人、供僧、内侍)の知行する段銭等を与えられている[4]。
さらに同年7月5日に大内義隆から棚守職に任命され、同年11月20日には室である小方加賀守の娘と共に義隆の下に参上した。この頃、大内氏から社家三方に対する命令が、神主である佐伯景教を経由せず直接房顕に発される等、次第に房顕の威勢が神主を凌ぎ、社家内における支配的地位を確立していった[4]。
天文12年(1543年)末から天文13年(1544年)3月28日にかけて一条房通が厳島に来島し、その接待にあたった[5]。
天文15年(1546年)、仏詣のために上洛したところ、一条房通から挨拶に来るようにとの誘いを受けた[5]。房顕は大内義隆に連絡せず無断で参上することは思いもよらない事だと一条房通に伝えたところ、天皇宸筆の歌仙の和歌の書を下賜された[5]。このことについて、後に房顕は「棚守房顕覚書」において「近頃にない面目を施したことであった」と述懐している[5]。また、以前厳島に来島した際に蹴鞠の指南を受けた飛鳥井雅綱にも挨拶のため参上している[5]。その後、高野山に参詣した後に藤ノ坊において連歌の会を興行し、「所から 聞く名も高し 時鳥」という発句を詠んだ[6]。さらに、伊勢神宮にも参宮し、御神物について自らのことは勿論、大内義隆や陶隆房の奉書を戴いて神馬を進上したならばと言上した[5]。
天文18年(1549年)に毛利元就・隆元父子が大内義隆と謁見する際に、房顕は元就父子に儀礼を指南した[4]。
天文20年(1551年)3月11日には大内義隆から「隆」の偏諱を受け「隆久」と名乗ったが、短期間で再び名を「房顕」に戻している。
毛利氏との関係強化
天文20年(1551年)9月1日の大寧寺の変で大内義隆が討たれ、陶晴賢が大内氏の実権を握ると、房顕は毛利氏との更なる関係強化に乗り出し、天文22年(1553年)には晴賢に表裏がある旨を元就に報じ、天文23年(1554年)の折敷畑の戦いでは元就に使者を派遣して御供米と巻数を捧げた[4]。これらの功により、房顕は毛利氏から御子内侍や社家三方惣奉行などに任じられ、毛利氏の勢力拡大後も厳島神社社家内の支配的地位を維持することに成功する[4]。
以後は天文24年(1555年)の野間隆実攻め、弘治3年(1557年)の且山城攻め、永禄2年(1559年)の石見攻め、永禄13年(1570年)の尼子再興軍との合戦等、毛利氏の出陣の度に戦勝祈願を行った[4]。また、永禄9年(1566年)に元就が病となった際には、元就の全快祈念の為に大般若経を読誦した。
天文24年(1555年)10月1日の厳島の戦いにおいて毛利氏が陶晴賢を破ると、厳島神社を取り囲むように発達していた町場によって厳島神社の社殿付近にまで人家が拡張したことが問題となったため、元就はその撤去を命じているが、その通達相手として、厳島神社の社家の代表として房顕、厳島に所在する大願寺の僧侶である大願寺円海、厳島の町場の有力町衆と思われる児玉筑前入道、児玉尚清、児玉肥前守、毛利氏から派遣されてきた厳島役人の佐武美久を指定している[7]。元就の使者を務めた信常元実から、厳島神社社頭の防火環境を整えるために厳島大町脇小路の宝蔵の近辺から大願寺周りの家を立ち退かせて、空き屋敷を大願寺に打ち渡し、火の用心の造営に当たらせるとの元就の指示を受け取った佐武美久と児玉就秋は、閏10月12日に厳島大町に対し、その旨を披露するように伝えている[8][9]。
永禄6年(1563年)には隆元らの助力によって、永享年間以来途絶えていた、社家・供僧が行水する大風呂を再興し、同年8月11日には嫡男・長松丸(後の元行)に所領と所職を譲った[注釈 2][4]。同年閏12月、房顕から歳首祈念の巻数を送られたことを謝す毛利幸鶴丸(後の輝元)からの書状が房顕に送られたが、この書状が現存する輝元最初の書状である。
元亀2年(1571年)の厳島神社本社殿の造営では、遷宮師として京都から神祇大副の吉田兼右を迎えることを元就に要請し認可され、同年12月27日に遷宮式を執り行った[4]。
社内相論
天正4年(1576年)1月4日、大聖院座主のもとに社家8人が集まる厳島神社の毎年の定例行事の席上において、社家の田中務丞と大行事との間で席次の上下を争う相論が発生し、この相論をきっかけにしてその後の定例行事が滞ることとなった[10]。さらに、それまでの27年間は厳島神社内で実施されていた1月25日の月次連歌が、天正4年(1576年)は厳島役人を務める佐武美久の役人屋敷で挙行され、社家衆が御会所に出席しない事態が起こっている[10]。これらの事件の背景には、厳島役人の佐武美久、大聖院座主の大聖院良政、田中務丞や上卿景豊ら社家衆の一部が結託し、社家を統轄する房顕・元行父子と対立する構図があったと見られている[注釈 3][10]。
毛利氏側では棚守家の厳島神社内での従来の地位や権益を保全する方針であったと推測され、同年5月4日に毛利氏側では棚守元行に対して、毛利元就・隆元父子の頃の例に従って房顕の所帯である「厳島社家奉行、山里社米同余得分、社家段銭」を安堵する一方で、社家三方(社家、供僧、内侍)で「違乱」があった場合に下知すべきことを通達し、5月6日に粟屋元種と児玉元良の連署奉書でもそのことを確認した[12]。
しかし、その後も事態はさらに深刻化し、厳島神社内での収束が困難となったため、同年10月には対立する双方が吉田郡山城に出頭し、毛利氏のもとで審理されることとなった[10]。10月初めから佐武美久が吉田に赴いて房顕・元行父子の失脚させるための働きかけを行ったため、それに対抗して棚守家側は房顕を厳島に残して、元行が10月24日に吉田に参上し、佐武美久と結託する大聖院良政も10月26日に吉田に参上している[10]。
吉田に参上した棚守元行、佐武美久、大聖院良政らが平佐就之、国司元武、粟屋元種、児玉元良ら吉田奉行衆の尋問を受けた後、社家の上卿景豊、田中務丞、田景欽も招集された[10]。この時、元行は裁定を有利にするため御四人の小早川隆景、吉川元春、福原貞俊、口羽通良をはじめとして、平佐就之、粟屋元種、児玉元良、児玉就光、兼重元宣らと面会しており、厳島に残った房顕に対する書状に手応えを感じた心情を率直に記している[10]。
審理が終了した後の同年11月6日には毛利輝元が房顕に対して、概ね同年5月の通達と同様に元行に申し付けることを通達しており、棚守家の厳島神社内での地位や権益を保全する方針に変更は無かった[12]。その一方で、同年11月29日に粟屋元種と児玉元良が房顕に対して送った、吉田に招集した社家3人の帰島とその後の社役や座敷などについての通達をもって相論は収束するが、その後も佐武美久や大聖院良政らの立場にも特に変更は見られないことから、対立した双方とも毛利氏からの厳しい処分は無かったと考えられている[12]。毛利氏が従来の体制をそのまま維持した背景として、厳島役人の佐武美久が大聖院座主や社家内部の人々と交流を深めて、厳島神社内外に絶大な権力を築き上げていた房顕・元行父子にも危機感を抱かせるほどの人脈と実力を有していた点[注釈 4]を否定するよりも有効に活用する方が厳島支配の安定に繋がるとの判断があったと考えられている[12]。
棚守房顕覚書
沖家騒動
天正4年(1576年)から始まった毛利氏と織田氏の戦争は毛利氏が次第に劣勢となっていくが、羽柴秀吉の調略によって瀬戸内海における毛利氏の制海権が東側から徐々に切り崩されたことが厳島にとって深刻な影響を与えており、天正9年(1581年)から天正10年(1582年)にかけて、村上水軍にも羽柴秀吉の調略の手が伸び、来島村上氏の来島通総が織田方へと転じた上、天正10年(1582年)3月から4月にかけて能島村上氏の村上武吉も織田方へ転じるとの流言が広まった(沖家騒動)[14]。
沖家騒動の影響によって、厳島では島民が島外へ脱出するなど緊張が高まり、厳島神社においても毛利氏の一族や家臣が奉納し宝蔵へ収蔵されていた数々の刀剣を戦火から退避させるために対岸の桜尾城に移送する話が持ち上がった[注釈 5][14]。移送を受ける桜尾城側はこの対応に難色を示したが、輝元の意向により実行に移され、移送にあたっては房顕・元之父子、大聖院良政、佐武美久が毛利氏奉行人の児玉元良と粟屋元種に対して移送予定の刀剣を記した刀剣注文を提出した上で、4月8日に桜尾城主・穂井田元清の奉行人である桂元依、椋梨源右衛門尉、福原就次に対して宝物預け注文を作成し[15][16]、桜尾城側でも預け注文に対応する預り注文を作成し、各注文状に従って刀剣の移管手続きが進められた[注釈 6][14]。
家督譲渡
天正10年(1582年)6月4日に備中高松城において毛利氏と羽柴秀吉との間で講和が結ばれたことで織田氏との戦争は終結すると、同年12月に房顕は病により嫡男・元行へ家督を相続させた[14]。棚守家の家督相続は社家を統轄する権限の委譲を伴うものであるため、織田氏との戦争状態を脱した毛利氏による厳島支配の最初の重要案件となった[17]。
天正11年(1583年)閏1月9日、毛利輝元は元行の家督相続を正式に承認し、厳島神社の神事や社法の執行と神領の支配を房顕の代と同様に安堵した上で、棚守家の社家の統轄責任者としての立場を再確認した[17][18]。さらに輝元はこのことを社家三方、大願寺、厳島役人の佐武美久、有力町衆らに通達し、佐武美久を筆頭に有力町衆である児玉太郎左衛門尉、福田六郎左衛門尉、児玉与三右衛門尉、児玉兵部丞らに対して元行への従前通りの尽力を要請している[17][18]。
同年3月13日、毛利輝元は以前から房顕が制定を求めていた「厳島中掟」を制定した[17]。17ヶ条に及ぶこの掟は厳島神社関係者だけでなく、在島する毛利氏家臣も含めた全ての厳島の島民を対象としていたことから、厳島全域に適用される法としての性格を有しており、最初に神事に関する社家の役割と責任を明確にした上で、普請における社家・供僧・給人の負担のあり方や、厳島の戦いの頃からの懸案であった社頭付近の屋敷や店棚の問題をはじめとする様々な島内での禁止事項を列挙している[17]。
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脚注
参考文献
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