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水無瀬兼成

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水無瀬 兼成(みなせ かねなり)は、戦国時代から江戸時代公卿正二位権中納言[1]

概要 凡例水無瀬 兼成, 時代 ...

生涯

永正11年(1514年)、三条西公条の次男として誕生。兄に実枝がいたため、水無瀬英兼の養子となる。

天文16年(1547年)正月5日、従三位に叙される[1]

永禄11年(1568年)10月、将軍・足利義栄阿波へ退くと、義栄派の公家朝廷を追われ、兼成も阿波へ下向を余儀なくされた[2]

元亀2年(1571年)10月、実子の氏成が誕生する。だが、高倉永家の四男・親具をすでに養子としていたため、兼成の跡目をめぐって争いが起きた。結局、親具は水無瀬家を去り、別家となる堀河家を立ち上げた。

慶長5年(1600年)、出家し、慈興と号する。

慶長7年(1602年)9月18日、死去。享年89。

人物

兼成は能筆家として知られ、将棋に銘を印した。「水無瀬駒」と称されたその駒は、正親町天皇後陽成天皇足利義昭豊臣秀次徳川家康など、公武の面々に譲渡された。兼成がその生涯で制作した将棋駒は、700組以上だとされる[3]

脚注

参考文献

関連項目

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