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水谷孝
日本のプロ野球選手 (1948-) ウィキペディアから
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水谷 孝(みずたに たかし、1948年4月28日 - )は、三重県出身[1][2]の元プロ野球選手。右投げ右打ち。投手。
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来歴・人物
三重高校では、1966年にエースとして春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では2回戦(初戦)で宇部商の三原義昭(松下電器)に抑えられ敗退[3]。春季中部大会にも出場、決勝で静岡高のエース望月充に投げ勝ち優勝を飾る。夏の選手権では、初戦で鹿児島実の川畑和人を打ち崩し2回戦に進出。しかし平安高の門野利治、池田信夫の継投の前に2-7で敗退[4]。高校同期に左翼手の渋谷洋一(阪急)、控え投手の榎本直樹がいる。
同年のドラフト(1次)1位で、阪急ブレーブスに入団する。当時の阪急には梶本隆夫、米田哲也、足立光宏、石井茂雄といった好投手が揃っていたが、1968年には先発陣の一角に食い込み15勝7敗、防御率2.83(リーグ7位)と米田の29勝に次ぐ好成績をあげる。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは2試合に登板。翌1969年も11勝を記録、同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦の8回からリリーフで登板するが、高田繁、土井正三に適時打を喫し敗戦投手となった。その後は故障で一時低迷。しかし1973年に12勝4敗、防御率2.67(4位)、1974年にも11勝5敗、防御率2.91(6位)と復活した。1975年は再度の故障のため棒に振り、1976年に島野修との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍する。しかし故障の影響もあって球威の衰えは隠せず、目立った活躍はできなかった。1977年に無償トレードで阪急に復帰するが、1978年限りで引退した。
入団時は速球投手であったが、故障後は技巧派に転向。制球力に優れ、変化球はカーブ、チェンジアップ、フォークを武器とした。
現在は、名古屋市で少年野球(硬式)名古屋フレンズの監督をつとめる。本業は針鍼灸院を名古屋市中川区で開業している。 中日に在籍していた前田章宏捕手は水谷の教え子である。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 15 (1967年 - 1975年、1977年 - 1978年)
- 22 (1976年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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