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池上秀畝
明治から昭和期にかけての日本画家 ウィキペディアから
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池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月11日[1][2][3] - 1944年(昭和19年)5月26日[1][2][3])は、明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意とした。
略歴
長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる[4]。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩・御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。明治21年(1888年)頃には、自ら「國山」の号を用い、自作に「圀山」印を押すようになる。
明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。瀧和亭、川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり4年間を過ごし文人画を学ぶ[3][4]。一時は洋画も研究するが、これは寛畝がやめさせている。明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられるが、秀畝はその中心人物となる。
明治40年(1907年)正派同志会第1回展で二等銀牌[5]、翌年の文部省美術展覧会で初入選する。大正5年(1916年)から3年連続で文展特選となるも[1]、大正7年(1918年)同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切る[5]。大正8年(1919年)、発足したばかりの帝展で無鑑査となる[3]。昭和8年(1933年)、帝展審査員[3]。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力した[1]。晩年になっても力作を次々と発表したが、第二次世界大戦の最中の昭和19年(1944年)5月26日に東京都下谷区の自宅で狭心症により没した[5]。戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられた。
令和6年(2024年)生誕150年にあたり、故郷伊那市では記念展を高遠町歴史博物館(2月23日から6月16日)、信州高遠美術館(3月2日から5月19日)、伊那市創造館(3月16日から5月27日)、長野県伊那文化会館(3月30日から5月12日)でそれぞれの館で企画し開催する。また練馬区立美術館(3月16日から4月21日)と長野県立美術館(5月25日から6月30日)でも代表作品を展示する巡回展を開催 [6]。
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代表作
- 「初冬」1910年
- 「松に鶴図屏風」(1912-1926年)
- 「夕月」(1916年)
- 「咆哮」(1942年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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