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河津憲一
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河津 憲一(かわづ けんいち、1933年12月4日 - )は長崎県長崎市[1]出身の元プロ野球選手。1958年から1961年までは、河津 宏紀(-ひろき)[1]。
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来歴・人物
長崎商業では1952年、エース太田正男を擁し三塁手として春の選抜に出場[1]。準々決勝に進むが八尾高の木村保に抑えられ敗退[2]。同年夏の選手権では準決勝に進出するが、またも八尾高の木村に完封を喫する[3]。
1953年に、大阪タイガースに入団[1]。1956年には一軍に定着し、二塁手、三塁手として28試合に先発出場を果たす。しかし当時のタイガースの内野手の布陣は、三宅秀史、吉田義男、白坂長栄という名手ぞろいだったため、レギュラーを獲得することはできなかった。
1958年オフに、東映フライヤーズに移籍[1]。ここでも控え内野手にとどまるが、1961年には自己最高の52試合に先発する。しかし同年限りで自由契約となり、南海ホークスに移籍[1]。1963年に現役を引退した。
引退後はエース株式会社に入社し、後に常務を務めた[1]。
私生活では宝塚歌劇団卒業生の歌園いすゞと結婚。娘(双子)に宝塚歌劇団卒業生(元専科娘役)の鈴奈沙也と同卒業生(元月組娘役)の鈴奈美央がいる。
東映時代の1961年8月16日から9月12日まで22試合連続三振を記録している[1]。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 34(1953年 - 1956年)
- 9(1957年)
- 24(1958年)
- 4(1959年 - 1961年)
- 29(1962年 - 1963年)
登録名
- 河津 憲一 (かわづ けんいち、1953年 - 1957年、1962年 - 1963年)
- 河津 宏紀 (かわづ ひろき、1958年 - 1961年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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