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洞院公数

洞院家10代。正二位・権大納言。出家 ウィキペディアから

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洞院 公数(とういん きんかず、嘉吉元年(1441年) - 没年不詳)は、室町時代公家左大臣洞院実煕の子。官位正二位権大納言

経歴

文安4年(1447年従四位下叙位を受けると、左近衛中将を経て、宝徳3年(1451年従三位に叙せられ、三位中将となった。

享徳3年(1454年正三位に昇叙されると、康正2年(1456年従二位に叙せられて中将を去るも、翌康正3年(1457年)左近衛中将に還任するが、これは洞院家として初めての例であった。

長禄2年(1459年権中納言に昇任されて右衛門督を兼ねる。長禄4年(1461年権大納言に任ぜられ、その後の寛正6年(1465年正二位文正元年(1466年)には左近衛大将を兼ねている。

文明2年(1470年)に官職を辞し、文明8年(1476年)伝来の家記・文書類を売却して出家。公数の出家により洞院家は断絶した。洞院家は先代の実熙の頃には、所領を失って既に経済的に困窮して「番々の輩の如く成り下がる事はできない」と嘆かせる状況であったことから、清華家としての家格を維持できる見通しを失ったために、公数は没落よりも自ら絶家させる選択をしたとする指摘がある[1][2]。一方で、同じ閑院流で昇進面でのライバルでもあった三条公敦は、『尊卑分脈』の西園寺通季の項の傍らに、公数は「放埒」の人であるためにこのような行為を行い、「不知法名」(出家したが法名は知らない)、「可洗耳」(耳を洗うべし=このようなことは聞きたくもないという意味)と記し、公数の行為を厳しく批判している。

その後、左大臣西園寺実遠がその子公連を跡継ぎとして朝廷に申請・再興し、公連は文明14年(1482年)に叙爵している。

洞院家が所蔵していた記録・文書類は中院通秀らに売却され[3]郢曲内侍所御神楽の所作人は四辻季春が継承した[4]。通秀の手に渡った『園太暦』を、後に借り受けて書写した甘露寺親長の奥書には「申断絶一流之由、文書記六売却方々、其内也。」(洞院家を断絶させるために売却した)とあり、公数が敢えて洞院家を断絶させたもので、公連には家を継がせたくなかった意思が窺われる。なお、洞院家の所領に関する文書は公連に継承されたものの、その所領はすでに武士に横領されて不知行となっており、収入を見込めるものではなかった[1]

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官歴

公卿補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

参考文献

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