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清水登之
日本の画家、1887-1945 ウィキペディアから
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清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 - 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。

来歴
栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)で、清水藤十郎・ムラ夫妻の長男として生まれる。弟は東亜同文書院教授や外交官となった清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
1917年にニューヨークへ移り、デザインの仕事をしながらアート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンらの教えを受ける。一時結婚のため帰国した後、再渡米翌年の1921年に第34回アメリカ絵画彫刻展に「横浜夜景」が招待出品される。一旦は受賞が決まったものの、アメリカ人でなかったことを理由に受賞を取り消されてしまう。その後1924年に一家挙げてフランス・パリに移住し、三宅克己や藤田嗣治・海老原喜之助・清水多嘉示らパリ在住の画家たちと交わりながらサロン・ドートンヌで入選する栄誉に与った。
1927年に帰国してからは東京を拠点に活動し、1930年の第17回二科展で「地に憩ふ」により二科賞を受賞。その後は独立美術協会の結成に加わるが、1932年従軍画家となり戦争を題材として多くの戦争画を描く。 1939年(昭和14年)には陸軍美術協会に参加[1]。 最晩年は栃木県の生家に疎開するも、6月に長男・育夫の戦死を知り終戦直後の12月に死去。
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受賞歴
- 1925年、サロン・ドートンヌ入選
- 1929年、樗牛賞(二科展)受賞
- 1930年、二科賞受賞
主な作品
要約
視点
戦争記録画について
製作された戦争画のうち2点(『汪主席と中国参戦』『工兵隊架橋作業』)については、GHQに軍国主義的であると判断されて他の作家の作品とともに没収。1970年(昭和45年)、アメリカ合衆国から無期限貸与の形で返還され東京国立近代美術館に収蔵されている[12][13]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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